戦前に起きた事件の中でも猟奇的な事件として有名なのが「阿部定事件」である。
阿部定事件概要
阿部定
昭和11年(1936)5月18日、荒川区の待合茶屋「満佐喜」で絞殺されている男性が発見された。
この事件は後世まで猟奇的殺人事件として世間の注目を集めることになる。
殺されたのは、中野区の料理屋「吉田屋」の主、石田吉蔵(42)だった。
一緒に宿泊していた女性は、用事があるといって出かけたままだった。
殺された吉蔵の首には腰ひもが巻かれてあっただけでなく、陰茎と睾丸が切り取られていた。
シーツには、「定吉二人きり」と血文字で書かれてあった。
事件から2日後に定は逮捕されたが、美しい女性が男を殺害したうえ、男の性器を切り取り、「定吉二人きり」と血文字を残したことは、猟奇的珍事件として世間を騒がせることになった。
自分のものにするために吉蔵を殺害
吉蔵は、事件3日前から吉田屋の女中として働く阿部定(32)と密会用の旅館「満佐喜」に一緒に泊まっていた。
定は、昭和11年2月から吉田屋で働き始めるが、主人吉蔵と定はやがて深い関係になり、昼夜関係なくセックスしていた。
時には、性的な興奮のために首を絞めさせることもたびたびあったようだ。
過去には、首を絞め過ぎて吉蔵の具合が悪くなったこともあった。
定は、供述で吉蔵を妻の元に返すのが嫌で、吉蔵を永遠に自分のものにするためには殺すしかないというのが動機だった。
局部を切り取ったのは、吉蔵の妻に触らせないためであり、局部と一緒だと吉蔵と一緒にいるような気がして淋しくないとの理由からと語っている。
局部を切り取った後、定は着物の下に吉蔵のシャツやズボン下を着け、吉蔵の局部をふんどしで包んで腹に巻き、死体に口づけをして待合茶屋「満佐喜」をあとにした。
当初、定は大阪で自殺を死のうと思い、事件翌日に品川に向かったが、世間ではすでに事件のことで騒然となっていた。
新聞にも大きく取り上げていることを知って大阪行きは諦め、結局、2日後に品川駅の近くにある旅館で逮捕された。
阿部定の生い立ち
阿部定は、明治38年(1905)に東京神田で畳屋の家庭に六人兄弟の末っ子として生まれた。
15歳で大学生に犯されて処女を奪われてからは、男と遊び歩くようになる。
その後、父親が定を稲葉という男に紹介し、定は18歳で芸者になった。
定は、それからは各地を転々として愛人やホステスをして生活したという。
昭和11年2月に料理屋「吉田屋」で女中として働きだした定は、ここで主人の石田吉蔵と知り合う。
やがて二人は、外出して密会用の旅館待合で会うようになる。
阿部定事件が後の社会に与えた影響
阿部定が起こした猟奇的な事件は、日本中の関心を集め、号外が出され、定へのファンレターは1万通にものぼったという。
裁判でも傍聴券を求めて早朝から長い列ができるほどだった。
逮捕された定は、殺人罪と死体損壊罪で起訴されたが、弁護側は、被告には異常なほどの性的欲望からきたものであるとして、傷害致死又は自殺幇助を主張した。
東京地裁で懲役6年の刑を言い渡され、栃木刑務所に服役したが、恩赦によって定は5年で出所した。
出所した定は、素性を隠して結婚したが、後に過去の事件がばれて離縁された。
その後定は、知名度を利用して各地を巡業したり、料理屋の女中をしたりしたが、昭和46年(1971)にホテルで働いたのを最後に突如消息を絶ち、その後の消息は分かっていない。
津山事件を起こした都井睦夫も阿部定事件を知り非常に興味を示し、阿部定事件に関する記事の切り抜きを集めていたという。
事件は、様々なドラマや映画のモデルにもなっている。