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近所では評判の夫が突然、妻の目の前で逮捕された。

しかも夫の名前は偽名だった。

本当の名前は、大西克己。山口県下関の出身だった。

 

昭和30年(1955年)6月、大西は家庭の不和を理由に実家の養父母の大西福松(60)とくま(56)を青酸カリで毒殺する。

現場には、親子三人で自殺すると書かれた遺書が残されてあった。

しかし、現場に大西の姿はなかった。

近隣調査

遺体発見後、警察が大西について近隣に聞き込みを行うと、大西は事件前に勤めていた会社の売上金130万円を盗んでいたことが判明した。

大西は、8年前にも窃盗で逮捕されており、指紋を登録された前科持ちだった。

聞き込みの結果、遺書は捜査をかく乱するものと断定したが、その後の足取りは一向につかめなかった。

2つの指紋

昭和33年(1958年)7月、警察は凶悪容疑者の26人を全国指名手配する。

その中には大西も含まれていた。

警察が容疑者26人について調査した結果、大西と同じ指紋を持った異なる人物がいることが分かった。

 

最近、泥酔して他人の家に侵入した男の指紋と大西が一致したことから、2人を同一人物と推定し、大西が成り代わった人物を全国指名手配した。

捜索の結果、大西が偽名を使っていることが判明し、大西を逮捕した。

養父母殺害の動機

大西が起こした一連の事件は、凶悪犯全国公開捜査第1号に指定。

半年後に大西が捕まったことで連続殺人事件の全容が明らかになった。

 

大西が生まれる前のこと、養父母は子供に恵まれなかったことから養女を取る。

やがて養女は結婚し、男の子(大西克己)を生んだが、大西を生んでほどなくして離婚する。

女一人では生活が大変だったことから、実家に戻る。その際に大西は養祖父母の養子となった。

 

こうして同じ屋根の下、血のつながらない両親との生活が始まった。

養父は働かず酒によっては大西を殴ったという。冷たい家庭環境から大西は荒れるようになり、やがて窃盗で逮捕されることになる。

 

その後も養父の暴力は止まなかったが、大西は一人の女性と出会って結婚した。

結婚した大西が家を出ようとした時のこと、稼ぎ頭の大西に逃げられないようにするために、養父母は「家を出ていくなら嫁に前科者であることをばらす」と脅した。

これからも養父母にいびられる日々が続くのかと追い込まれた大西は、養父母の殺害を決意する。

養父母殺害後の足取り

大西は、養父母を殺した後、妻子を置いて偽名を使って別府に逃亡したが、些細なトラブルから喧嘩を起こして送検されてしまった。

送検されて養父母殺人が発覚することを恐れた大西は東京へと逃走した。

 

逃走途中に新聞で指名手配されていることを知った大西は、1956年2月に東京で戸籍を売りたがっている男に出会った。

この男こそ大西の新しい偽名の本当の持ち主だった。

 

その後、警察が身元不明となっている死体を徹底的に調べると、岡山で身元不明の焼死体があることが判明した。

親族に身元不明の遺留品を見せたことで、大西が成り代わった男性の所有物であることが判明する。

 

大西は男性から戸籍を買ったものの、戸籍の売買を誰かにしゃべらないという保証はない。

売買の事実が発覚することを恐れた大西は、男性を殺害した。

さらに身元が判明してしまうと死亡届が出されてしまうため、身元が分からないよう遺体にガソリンをかけて燃やした。

 

こうして別の人物となった大西は、東京に出て就職し、新しく出会った女性と結婚して子供まで作っていた。

 

ところがある日、泥酔して他人の家に侵入してしまい、警察を呼ばれてしまう。その際に指紋まで取られてしまった。

指紋を取られてしまったことで、再び身替わりが必要になった大西は、浅草で佐藤という男と出会う。

大西は佐藤さんを旅行の名目で山中に連れ出して絞殺。

遺体の身元が分からないように指と鼻を切り取り、オイル缶に入れて湖に沈めた。さらに遺体を山中で棄て、顔が分からないように硫酸をかけた。

 

大西の中では完璧な犯罪のはずだったが、湖で遊ぶ近所の子供がオイル缶を発見してしまう。

興味本位で子供たちがオイル缶の中を開けてみると、中から切断された指と鼻が出てきた。

通報を受けた警察が付近を捜索すると、指と鼻の切り取られた遺体も発見された。

発見された指にはかすかに指紋が残っており、遺体の身元が判明する。

実は、佐藤さんは前科があり指紋が登録されていたのだ。

 

昭和33年7月、大西は全国指名手配されたのちに逮捕された。

弁護人が弁護を拒否

昭和34年(1959)12月、水戸地裁で死刑判決を受けると大西はすぐさま控訴した。

大西が国選弁護人に控訴趣意書の書き方を求めると、国選弁護人は必要ないと断ったうえ、「被告の行為は死刑はやむを得ない。控訴する必要はない。」といった趣意書を裁判所に提出してしまった。

 

大西は、「弁護人が弁護してくれないのでは、弁護人なしで裁判が行われるのと同じだ。」として、国選弁護人を相手に訴訟を起こした。

その間に大西の死刑判決は確定したが、弁護人を相手取った裁判は東京拘置所で引き続き行われることとなった。

昭和38年11月28日、東京地裁は「弁護放棄は不法行為」として、国選弁護人に対して賠償を命じる判決を下した。

判決

昭和34年(1959)12月、水戸地裁で死刑判決が下り、大西は控訴する。

 

昭和35年6月、控訴が棄却されたため上告する。

 

昭和36年3月、上告棄却により、大西の死刑が確定する。

 

昭和38年11月、国選弁護人に対して賠償を命じる判決が下る。

 

昭和40年、大西の死刑が執行された。