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1960年、日本中が日米安全保障条約に注目し、反対運動は国会議員だけでなく、労働者も国民も参加して大規模なものだった。

大規模な反対運動は、当時の岸内閣の総辞職にまで発展している。

少年・山口二矢の生い立ち

山口二矢は、1943年に東京都台東区で生まれた。

幼い頃から新聞やニュースを好んで読み、早くから右翼思想に影響を受け、16歳で大日本愛国党の党員となった。

右翼団体に加入した後は、過激な活動によってたびたび検挙され、保護観察処分も受けた。

 

山口は、当時の日本社会を憂える一人として、浅沼稲次郎の暗殺を計画する。

17歳の愛国者

1960年10月12日、日比谷公会堂で浅沼稲次郎が立会演説の最中に一人の学生服の少年・山口二矢(17)に刺殺された。

 

この日は、浅沼稲次郎以外にも池田勇人首相、西尾末広委員長の演説と一緒に行われ、壇上には「自由民主党池田勇人氏」「民主社会党西尾末広氏」の垂れ幕と並んで「日本社会党浅沼稲次郎氏」のものもあった。

 

立会演説は、浅沼稲次郎の順番になった。

右側にいた学生服を着た少年・山口が短刀を持って壇上に駆け上り、浅沼を2度刺した。

刺された浅沼は、その場で崩れ落ち病院に運ばれるが、運び込まれたときには瀕死の状態で、治療のかいなく午後3時10分死亡した。

 

事件当時の日本は、安保反対運動真只中で、事件を犯した山口は元右翼団体の党員だった。

浅沼は社会党委員長として、左翼系の支持者や労働者に「人間機関車」として親しまれていた。

 

山口は逮捕された後、11月2日に少年鑑別所内で「天皇陛下万歳」の遺書を残して自殺した。

 

右翼団体の危機感

1960年1月、岸信介首相がアメリカとすすめていた日米安全保障条約は、アメリカの日本防衛義務が明記されていた。

岸は、このことを日本国にとって有利な事と捉えていたようだが、反対派は違った。

反対派は、このことがアメリカの軍事化に日本が組み込まれ、アメリカが起こす戦争に日本が巻き込まれるのではないかと考え反対したのだ。

 

岸内閣は、衆議院で安保法案を強行可決するが、これに怒った民衆は各地で反対運動を起こし、全学連や労働組合が警察隊と衝突し、多数の死者を出すことになる。

全学連を中心として勢いを増していた左翼勢力に対し、右翼勢力は危機感を募らせる。

 

安保闘争の指導的立場の浅沼は、純粋な右翼少年・山口二矢にとっても憎むべき存在と映り、凶行を決意させる。

そして、17歳の右翼少年が選んだのは、浅沼稲次郎を直接襲うという方法だったのである。