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津山事件は、1938年に現在の岡山県津山市加茂町行重の貝尾、坂元で起きた大量殺人事件です。

一人が一夜のうちに起こした大量殺人として「日本犯罪史上」最も有名な事件の一つです。

美作騒擾

津山事件からさかのぼること65年前、1873年に明治政府が施行した徴兵令に反対して日本各地で一揆が起きます。

その中でも特に大きかった一揆の一つが津山の北条県で起きた血税一揆です。

 

一揆に参加する者3万人ともいわれる大規模な一揆で、参加した者は、「徴兵令反対、学校入費反対、穢多非人の称廃止反対」を叫び、各地で焼き打ち、打ち毀しを行いました。

特に抵抗をした津川原村では、被差別部落民の18人が惨殺されました。

 

美作騒擾は、鎮圧までに6日間かかり、一揆を主導したうちの15人が死刑、処罰者27,000人、懲役刑64人という結果に終わりました。

津山事件

津山事件は、都井睦夫(22)が1938年に現在の岡山県津山市加茂町行重の貝尾部落、坂元部落で起こした大量殺人事件。

2時間足らずの間に30人が死亡、3人が重軽傷を負った。

都井睦夫

 

1938年5月21日午前1時40分、都井睦夫は、かねてより自分を邪魔扱いにする貝尾、坂元集落の住人を殺害するための準備をしていた。

黒詰襟、ゲートルを着用し、猛獣用の口径十二番九連発の猟銃を手にし、日本刀を腰に差し、短刀をポケットに入れて決行に移した。

 

まず、集落の電線を電柱に登って断ち切り、集落の電気を使えないようにし、ナショナルランプを腹にして、頭に懐中電灯をつけた。

そして、同居していた自分の祖母(75)の首を斧で刎ねて即死させた。

 

次に北隣の岸田勝之宅に行き、勝之の母つきよ、弟の吉男(14)、守(11)を殺害した。

 

続いて西川秀司宅に行き、秀司(50)、妻とめ(43)、長女良子(22)、とめの妹の千鶴子(22)を猟銃で殺害した。

睦夫は、かつて千鶴子に性交を迫って拒絶されており、恨みがあった。

 

次は、岸田高司宅に行き、高司(22)、妻智恵(20)、高司の母たま(70)、高司の甥の寺上猛雄(18)を襲った。

命乞いをする70歳のたまにも容赦なく銃をぶっ放したが、一家でたまだけは手当の結果助かっている。

 

続いて睦夫が向かったのが寺井政一宅である。一家は政一(60)、長男貞一(19)、長男の妻節子(22)、四女ゆり子(22)、五女とき(15)、六女はな(12)の6人家族だった。

中でも睦夫が恨みを抱いていたのが四女のゆり子だった。

ゆり子は丹羽卯一に嫁いでいたが、睦夫がしつこく夜這いをかけるので、離縁されており、睦夫はすかさず性向を迫ったが、5月5日に上加茂村大字物見の男性と再婚してしまった。

このことが今回の犯行の直接的な動機と遺書に書いている。

ゆり子だけは間一髪脱出に成功したが、他の家族は猟銃で殺害された。

 

睦夫はゆり子が寺井茂吉宅に逃げ込んだのを見て追いかけた。

睦夫の計画には茂吉一家を襲う予定はなかったが、ゆり子の助けを聞いて中に入れてしまったのが災難だった。

睦夫が茂吉宅前で扉を開けるように叫ぶと、何事かと思って寝ていた父孝四郎(86)が扉を開けたため、睦夫は振り向きざま猟銃をぶっ放して殺害した。

続いて四女由紀子(21)が銃で撃たれ軽傷を負った。

 

ゆり子追及をあきらめた睦夫は、その足で寺井好二宅へ行き、好二とその母トヨを殺害する。

睦夫は、トヨに金銭を払って情交を重ねたが、やがて拒絶されるようになった。

しかし、前から関係があった寺井倉一とは相変わらず関係を続けていたため睦夫に恨まれた。

 

寺井母子殺害後、次に向かったのは寺井千吉宅である。

寺井宅には、以前性交を迫って断られた丹羽イトの娘つる代(21)と岸田つきよの長女みさ(19)がいたからだ。

ここでつる代とみさの他平岩トラ(65)を殺害した。

主人の千吉は睦夫の悪口を言わなかったため助かった。

 

続いて向かったのは丹羽卯一宅である。

寝ていた丹羽イト(47)に重傷を負わせた(その後死亡)後、卯一(28)を探したが、卯一は逃亡したあとだった。

卯一を狙ったのは、卯一が寺井ゆり子を妻にしたという理由だった。

 

続けて池沢末男(37)宅に向かい、父勝市(74)、母ツル(72)、妻宮(34)、四男昭男(5)に発砲した。

戸主の末男は辛うじて難を逃れたが、勝市は全身に銃弾を浴び、肺を露出して死亡した。宮は心臓を撃ち抜かれ、昭男は腹部を撃たれて肝臓と腸が露出したまま死亡した。

 

次は寺井倉一(61)を襲うために寺井宅に向かった。

睦夫は、妻のはま(56)を殺害したが、倉一を殺害することはできなかった。

 

次に向かったのは、岡本和夫(51)宅だった。

和夫は妻みよ(32)と二人暮らしだったが、睦夫はみよに対してたびたび夜這いを仕掛けたため、睦夫の夜這いを阻止するためにいろいろ腐心していた。

このことから二人は睦夫の恨みの対象となっていた。

睦夫は和夫とみよを猟銃で襲って殺害した。

 

こうして29名を惨殺し、血まみれとなって附近の山林へ逃走したが、遺書を書くために途中で楢井部落に立ち寄り、顔見知りの小学生から紙と鉛筆を強奪した。

 

急報によって県刑事課から国富課長と津山署署長以下全員が駆けつけ、附近消防組及び青年団約1,500名の協力を得て山狩りを行った。

すると5月21日午前10時半頃、同村青山の荒坂峠付近の山中で、猟銃によって自殺している都井睦夫を発見する。

動機

何故、都井睦夫が犯行に及んだかについては、様々な説がある。

犯人の変質的性格

都井睦夫20歳の時に阿部定事件(女が男の下腹部を切り取って持ち去る事件)にすごい興味を持って新聞を切り抜いたりして集めていた。

2.26事件には興味を示さないが、女と見れば交渉を迫る性欲の塊だった。

むやみやたらに婦女子に手を出そうとするが、全滅だった。エゴが強く、村人からの軽蔑と嘲笑が耐えられなかった。

飼っていた犬を殺して他人に食べさせた。

疾病からくる厭世観

睦夫の父と母は肺結核で死亡していた。

睦夫本人は、肺結核にかかってから明らかに行動が変わった。

離反した女に対する復讐心

当時の津山では、夜這いが当たり前のように行われていた。

肺結核になる前に仲が良かった女も次第に離れていった。

家庭の事情

都井睦夫は、2歳の時に父、3歳の時に母を亡くしていた。そのため、両親からの愛情に恵まれず、親族にも適当な指導者、保護者がいなかった。

家計の行き詰まり

都井家は、比較的裕福だったといわれるが、睦夫は仕事をしておらず、病気療養のため、女の歓心を買うために使い、経済的に行き詰っていた。

精神病患者だった

本人の遺書には、「自分は精神病ではない」ということが書かれていた。

 

引用「津山三十人殺し」筑波明 貝尾集落と坂元集落

遺書

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

死亡者

池沢勝市、池沢ツル、池沢宮、池沢昭男、平岩トラ、丹羽つる代、岸田みさ、寺井好二、寺井トヨ、西川秀司、西川良子、岡千鶴子、西川とめ、寺井政一、寺井貞一、寺井とき、三木節子、寺井はな、寺井孝四郎、寺上猛雄、岸田高司、西川知恵、岡本和夫、岡本みよ、都井いね、岸田つきよ、岸田吉男、岸田守、丹羽イト、寺井由起子、寺井はま、岸田たま

 

都井睦夫

 

 

 

参考文献

「津山三十人殺し」 筑波明

「都市伝説と犯罪―津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件まで」朝倉喬司

「津山三十人殺し 七十六年目の真実 空前絶後の惨劇と抹殺された記録」石川清