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神戸洋服小殺人事件は、昭和26年(1951年)1月17日に詐欺容疑で指名手配中だった在日朝鮮人・孫斗八(25)が、神戸市にある顔見知りの呉服店の夫婦を金槌で殺害した事件。

 

獄中での孫は、六法全書を片手に告訴を立て続けに起こし、訴訟によって業務が滞ることを恐れた拘置所は、孫に対して腫れ物に触るような対応をとった。

訴訟を次々と起こす孫は、次第に刑務官らをアゴで使うようになり、大阪拘置所で第二の所長とまで呼ばれるようになった。

神戸洋服商殺人事件概要

昭和26年(1951年)1月17日、神戸市の生田区で住む家もなく詐欺容疑で指名手配されていた孫斗八は、ある洋品店に立ち寄った。

 

孫は以前、洋品店でオーバーを購入したことがあり、店の店主と妻とは顔見知りの関係だった。

店主と妻は、孫に対してぜんざいをふるまい、飲み屋では酒をおごった。

 

その後、飲み屋の前で孫と店主は別れたが、1時間後に孫は洋品店を再び訪れた。

店主の妻が対応して既に主人は寝ているといわれた孫は、近くにあった金槌を見つけ、金槌で店主の妻を撲殺する。

そのまま住居に侵入して店主を見つけて撲殺し、現金1万円と預金通帳と印鑑、衣類30数点を奪って逃走した。

 

しかし、10日後に広島で発見され逮捕された。

孫斗八の生い立ち

孫斗八は、1927年に朝鮮の慶尚南道で生まれた。

 

幼くして父が死んだため、母と別れ8歳で日本に住む親せきを頼って広島へと来たが、朝鮮人というだけで差別を受けることになる。

 

1944年に広島高専へ入学したが、翌年広島に原爆が投下され、孫は全てを失った。

米軍キャンプで窃盗をして重労働6か月の実刑判決を受け、広島工専を退学した後は転落人生を歩むことになる。

その後の孫は、窃盗や詐欺を繰り返して流行のファッションに身を包み大ぼらをはいて見栄を張るという人生を歩んだ。

獄中で戦う訴訟魔

昭和26年(1951年)12月19日、孫斗八に対して神戸地裁で死刑判決が言い渡された。

 

どうすれば死刑から逃れられるかを考えた孫は、たまたま読んだ六法全書から告訴することを思いつく。

 

孫は、拘置所の職員を次々に告訴し、拘置所の制度そのものに対しても対象を広げていった。

やがて「ラジオ放送を自由に選択できるように」、「日用品は無料で支給しろ」、「監房内での本の制限を撤廃するように」といった拘置所生活のあらゆることが訴訟の対象となり、孫が訴えの対象にしたのは130にも上ったという。

これによって拘置所では業務が滞ることを恐れて孫の要求を吞むようになり、孫は拘置所内を我が物顔で振舞うようになった。

 

しかし、1955年12月16日、最高裁は上告を棄却し、孫の死刑が確定する。

 

1958年8月20日、大阪地裁で孫が告訴した判決が下された。判決は孫の勝訴だった。

 

調子にのった孫は、死刑制度そのものに対して反対の訴えを起こした。

孫は、この訴訟で大阪拘置所の刑場を自ら視察し、3時間にわたって刑場を歩き回って写真を撮るなどした。

 

当時、アメリカの死刑囚であるチェスマンが、法律知識を駆使して自分自身の弁護をし、死刑停止を取りつけて話題になっていた。

死刑囚の孫は、やがて日本のチェスマンと呼ばれるようになった。

マスコミも獄中闘争をする孫を取り上げ、日本各地から激励の手紙や現金が送られたという。

日本のチェスマンの死刑執行

その後も第二の所長として刑務官をこき使ったが、新しい所長が赴任してきたことで孫の立場は変わった。

新しい所長は、孫の行動を制限し、刑務官をアゴでこき使うことをさせなかった。

 

昭和38年(1963年)7月17日、刑場に近い房の囚人は、刑場から離れた部屋に移されていた。

唯一、病気のために部屋を移されなかった囚人が孫の最後の叫び声を聞いたという。

それは、「貴様らだまし討ちにするのかっ!卑怯だぞ」だったという。

 

1963年7月17日午前10時過ぎ、こうして孫斗八の死刑が執行された。

享年37歳。