小平義雄によって、1945年から1946年の間に7人の若い女性が殺害された。
有罪となった7件以外にも、3件の殺人で起訴されたが、3件については証拠不十分で無罪となった。
小平は19歳の時に海軍に入隊し、戦時中は中国各地を転戦する。
戦地では、現地の人に強姦や殺人を行っていたという。
終戦を迎えた後も、行動を改めることなく、10人の女性を殺害した。
小平義雄
小平義雄の逮捕
1946年8月17日、東京にある芝公園の増上寺境内で、10代女性の遺体が発見された。
被害者女性の遺族の証言から、就職のあっせんをすると偽って、女性を呼び出していた小平義雄(41)が同月19日に逮捕された。
逮捕された小平の供述から、1945年5月から1946年8月までの15カ月の間に、10人の若い女性を次々と強姦し殺害したことが分かった。
小平義雄の生い立ち
小平は、1905年に栃木県日光市で宿屋を経営する両親の3男として生まれた。
小学校時代の成績は悪く、すぐ怒る子だったという。
小学校を卒業した小平は、1918年に上京して店員や工員の見習いをした後、再び地元に戻る。
1923年6月に再び上京。横須賀海兵団に入団し、海軍の隊員となった。
隊員として世界各地を訪れては、売春婦を買っていたといい、戦地では強姦や殺人をしていたという。
1932年、見合い結婚をするが、やがて小平が他の女性に手を出して私生児を生ませる。
このことを知った妻の両親が怒って離婚を迫ると、小平は妻の実家に行き、妻の父親を殺害。ほかの家族にも重傷を負わせ、懲役15年の判決を受ける。
出所した後、前科を隠して再婚し、やがて長男が誕生する。
1945年に戦火が広がると、妻子を疎開させて自分は品川区の海軍衣料廠の女子寮でボイラー係として働くようになる。
食糧難を利用して女性を誘い出す
1945年の戦後間もない当時の日本は、深刻な食糧難だった。
戦争によって農家の労働力が減少したうえ、戦争終結によって大量の日本人が引き上げことで、さらに食糧難は激化した。
どんぐりや野草が食卓に上ることもあり、そのため多くの人が食料を求めて農村へ買い出しに出かけていった。
小平は、食糧難をうまく利用して、若い女性に声をかけ、食料の提供を持ちかけて誘い出したという。
若い女性を誘い出しては、強姦と絞殺を繰り返した。
小平義雄連続殺人
1945年5月、小平は以前から目をつけていた勤務先の女性に言い寄ると、拒絶されて立ち去ろうとしたため、首を絞めて気絶させる。
女性が意識を取り戻すのを待つと、女性は観念して衣服を脱いだ。女性と関係を持った後、発覚を恐れた小平は女性を殺害して埋めた。
同年6月23日、東武鉄道新栃木駅で人妻女性に声をかけ、農家を案内すると言葉巧みに誘い出し、強姦して絞殺した。
同年7月12日、横浜市に住む会社事務員に、農家を案内すると声をかけ、栃木県に誘い出して強姦して絞殺した。
同年7月15日、池袋で女性会社員に声をかけ、北多摩郡清瀬村の雑木林に誘い出して、強姦して絞殺した。
同年9月28日、東京駅で農家を紹介すると声をかけて誘い出し、強姦して絞殺する。
同年12月29日、浅草で農家を紹介するといって女性に声をかけ、栃木県内に誘い出して、山中で強姦して絞殺した。
1946年6月18日、仕事を紹介するといって誘い出した10代の女性を、港区芝公園の増上寺境内で強姦して絞殺。
8月19日、遺族からの証言で逮捕された。
逮捕
被害者女性の遺族の証言から、就職のあっせんをすると偽って、女性を呼び出していた小平義雄(41)が1946年8月19日に逮捕される。
小平の自供によれば、1945年5月から1946年8月の逮捕されるまでに、10人の女性に対して強姦と絞殺を行ったという。
取り調べでは、女性を殺害した後、陰部を見ながら強姦(屍姦)することが好きだったと語っている。
10件の殺人のうち、7件は小平が犯人とされたが、3件については証拠不十分で無罪となった。
1947年6月18日、東京地裁で死刑判決が下る。
1949年10月5日、小平義雄の死刑が執行された。