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明治44年(1911)2月26日、長野県の善光寺に一通の電報と共に大きな行李(衣服などを入れるかご)が送られてきた。

荷物が到着してから2日以上経っても誰も持ち主が現れず、不審に思って行李を開けてみると、中には死体が入っていた。

その死体は、丸坊主で顔には漆が塗られているという奇妙なものだった。

行李に詰められた死体が善光寺に届く

明治44年(1911)2月26日午前8時30分頃、長野市の善光寺に「ケサコウリ一コテツヨリオクルウケトリタノムコウノヒロキチ」という内容の一通の電報が届いた。

そして同日午前10時頃に、大きな行李が長野駅から配達された。

同寺事務所は、団体参詣者の中に荷物の持ち主がいないか調べたところ、該当する者はなかった。

それなら今日到着する客の荷物であろうと、その日に到着した客に連絡をして回って調べてみたが、該当する者はいなかった。

 

荷物が到着してから丸二日半が経ち、初めて不審に思った事務所は、同寺本願執事立会いの下、行李を開けてみることにした。

行李を開けてみると、なかからは丸坊主の顔に真っ黒な漆が塗られた死体が出てきた。

 

検視の結果、死体は55歳くらいの女性で、身長は五尺の肥満型、白の経帷子を着ていた。

顔に漆が塗られていたせいで人相はわからなかったが、死体のそばには「法誉妙順禅定尼」の戒名が書かれた紙と、「東京市浅草黒船町中野とり同行二人」と書いた巡礼札が、五円(埋葬料と回向料)と一緒に入っていた。

長野署による痛恨の判断ミス

長野署が調べた結果、死体と一緒にあった戒名、巡礼札、埋葬料・回向料から、善光寺に埋葬を依頼しただけだろう判断され、事件性は否定された。

そして、死体を長野市役所に引き渡し、長野市役所によって埋葬に付された。

 

しかし、行李に入れられて死体が送られてきたこと、死体の顔に漆が塗ってあったこと、一緒に戒名や巡礼札、埋葬料が入っていたことをもって、新聞各紙は猟奇的事件と書き立てた。

 

長野署の依頼を受けた警察庁が、巡礼札にあった中野とりという女性がいないか調べてみたところ、巡礼札と同じ住所に同姓同名の女性が存在していた。

警察の確認によって本人が生存していたことが判り、死体は別人であることが判明した。

中野とりの供述によれば、8年前に善光寺に参詣したことはあるが、全く心当たりはないという。

 

 

そこで、警察はコウノヒロキチを捜索することにし、上野駅の手荷物担当者に聞き込みを行ったところ、2月15日の午後1時30分頃、50歳前後の男が荷物の発送のために訪ねてきたことが判った。

死体を行李に詰めて送り、本人は東京にいるというのは犯罪の可能性があるとして、警察庁刑事課の星加警部が二人の刑事とともに長野署へ死体の解剖を申し込むことになった。

しかし、長野署の土屋警部は申込みを拒絶し、このことがきっかけとなって警察庁と長野署は対立することになる。

やむなく引き下がった警察庁は、東京各地で犯人探しをしらみつぶしに行うしかなかった。

堀文左衛門

警察庁では、コウヒロキチの発見に全力を注いだが、20日間が過ぎても事件は進展せず、迷宮入りかと思われた。

ところが3月5日になって浅草区寿町の村上鎌吉という車夫が警察を訪れ、「2月15日に東本願寺の玄関番、堀文左衛門という男に依頼され、重い行李を上野駅まで運んだが、もしかしたらあの行李が話題となっている事件の死体ではないか……。」と話した。

 

これを聞いた捜査陣は、直ちに堀文左衛門のいる東本願寺へと向かったが、堀文左衛門は玄関番を辞した後で行方は掴めなかった。

警察の調べにより、文左衛門には、こうという名の50歳になる妻がいたが、2月15日ごろから行方が分からなくなっていたことも判明した。

また、文左衛門にははるという情婦がいたことも判り、その情報を得た捜査陣ははるの生家や立ち寄りそうな場所に警察官を張りつけることにした。

 

3月7日、はると文左衛門は現れ、張り込んでいた警察官に文左衛門は逮捕された。

逮捕の際、文左衛門はご迷惑をかけて申し訳ないとあっさりと犯行を認めた。

取り調べられた文左衛門は、涙ながらに犯行を自供した。

夫婦喧嘩から猟奇事件に発展

文左衛門の自供によれば、数年前からはると恋仲になり、これを知った妻のこうとは喧嘩が絶えなくなったという。

「お前さんなどと一緒に暮らしているより、死んだほうがましだ。私が死んだら、死体は善光寺様へ収めてください。」というのがこうの口癖だった。

2月14日、この日も夫婦は喧嘩をし、こうがいつものように早く殺せと口を開いた。

これを聞いた文左衛門は、カッとなりそれならいっそ望み通りにしてやろうと、手ぬぐいでこうの首を絞めて殺してしまった。

 

本気でこうを殺す気がなかった文左衛門は慌てたが、目撃者がいないことから今回の犯行を思いついた。

戒名は文左衛門が寺の玄関番をしていたことからそれらしい名前を付けたもので、埋葬料と回向料は殺して済まないとの思いからだったという。

ところが文左衛門の思いに反して事件が新聞で大々的に取り上げられ、新聞を見た文左衛門は自首を思い立った。

ところがいざ自首しようと思っても、捕まればはると会えなくなるのはつらく、最後に大阪や京都を見物することにした。

大阪や京都からの帰りに、はるの生家に立ち寄ろうとしたところを逮捕されたとのことだった。

 

 

文左衛門には、殺人罪で無期懲役の判決が下った。

 

 

 

 

参考

「日本猟奇・残酷事件簿」合田一道+犯罪史研究会