「おせんころがし」の由来は、海沿いの崖から「おせん」という名の娘が落ちたからだといわれている。
領主の家に生まれたおせんは、強欲な父親を改心させようと試みたものの、父親は一向に改心する様子がない。
ある時、年貢の引き上げに怒った領民が、父親の殺害を計画し、祭りの日に酔いつぶれた父親を襲って断崖から放り投げた。
翌日、領民が見に行くと、死んでいたのはおせんだった。
おせんは父親の身代わりとなって領民に崖から突き落とされて死んでしまった。
この事件がきっかけとなり、崖は「おせんころがし」と呼ばれるようになった。
おせんころがしは、房総半島の鴨川市にあり、道路が整備されるまでは外房と内房を結ぶ最大の難所だった。
栗田源蔵
栗田源蔵
秋田の12人兄弟の極貧家庭に生まれた栗田源蔵は、子供の頃からおねしょに悩まされ、それがきっかけで小学校のときはいじめられていた。
大人になってもおねしょはなおらず、刑務所でもおねしょをしていたという。
そんな栗田だったが、彼は女性と子供を合わせて8人を殺している。
栗田は、千葉地裁と宇都宮地裁の二か所で死刑判決を受けている。
栗田源蔵の逮捕
栗田源蔵が逮捕されるきっかけとなったのは、千葉県検見川町で起こした殺人事件だった。
昭和27年(1952)1月13日、千葉県検見川市にいた栗田は、以前から目をつけていた家に泥棒目的で侵入する。
しかし、家に住む主婦(25歳)に見つかってしまい、騒ぎ立てられたことからタオルで絞殺した。
同居していた主婦の叔母(64歳)も、逃げようとしていたところを出刃包丁で刺殺された。
栗田は、主婦を屍姦した後に逃走したが、残っていた指紋が検出されたことで3日後に逮捕される。
栗田は、この殺人事件で死刑判決を受けたが、裁判中に他の2つの殺人事件についても自供を始める。
栗田が最初に犯した殺人事件
栗田源蔵が犯した最初の殺人は、昭和22年(1947)の22歳のときに犯した女性2人に対するものであった。
1年半の懲役から出獄した栗田は、当時、22歳と17歳の二人の女性と交際していた。
栗田は、ある日、22歳の女性からしつこく結婚を迫られたため殺してしまった。
その後、22歳の女性を殺害したことをうっかり17歳の女性につい話してしまう。
このことを聞いた17歳の女性の様子をみて、密告されることを恐れた栗田は、17歳の女性も絞め殺した。
その後、殺人未遂で2年と窃盗で8か月の刑務所入りをしているが、殺人のことが警察に知られることはなかった。
昭和26年8月、出所した栗田は、窓を開けて寝ていた女性を発見し、強姦した後に絞め殺した。
この時点で栗田が人を殺害した数は5人。
おせんころがし殺人事件
昭和26年10月10日、栗田が千葉県安房郡の小湊町を自転車で走らせていると、駅の待合室で男の子と2人の女の子を連れた女性がいるのを発見する。
女性を見て欲情した栗田は、女性に送ってあげると声をかけた。
母親女性はそれを喜び、5歳の男の子を荷台に乗せ、みずからは2歳の女の子を抱え、7歳の女の子の手を引いて栗田とともにおせんころがしへと向かった。
栗田は、歩いている途中で母親に性交を要求したが、母親から体よくあしらわれた。
おせんころがしに差しかかった頃、我慢できなくなった栗田は、突如自転車を倒して男の子の首を絞め、崖から突き落とした。
男の子を突き落とした後、次に栗田は母親にしがみついていた女の子を断崖へと突き落とした。
栗田は、地べたに力なく座り込む母親を押し倒して強姦し、そのまま絞め殺した。
母親絞殺後、眠っていた女の子の首を絞めて、母親と一緒に崖に突き落とした。
現場から立ち去る際、崖の途中で親子が引っかかっているのを発見したため、懐中電灯片手に崖を下りて行き、とどめを刺した。
この時、7歳の女の子だけは殺しきれず唯一人助かった。
判決
昭和28年12月21日、宇都宮地裁で二度目の死刑判決が下り、栗田は控訴した。
昭和29年10月21日、栗田は死への恐怖を感じるようになり、早く楽になりたいとの思いから、自ら控訴を取り下げたため、死刑が確定する。
昭和34年10月14日、栗田の死刑が執行された。
極悪非道の死刑囚も仙台拘置所に移ってからは、痩せおとろえて無罪を主張するようになっていたという。