「練馬一家五人殺害事件」は、1983年6月27日に東京都練馬区大泉学園町で一家五人が殺害されたうえ、バラバラにされた事件。
1983年6月27日の午後、練馬区大泉学園町の白井明さんの自宅を訪れた不動産鑑定士の朝倉幸治郎(48)は、白井家宅に押し入り、妻(41)を殺害。すぐさま家にいた三女(6)と次男(1)を絞殺した。
その後、帰宅した二女(9)を絞殺した後、夫が帰ったところを待ち構えてマサカリで殺害した。
「電話しても誰も出ない」と妻の母親から連絡をを受けた隣人の主婦が訪問してみると、中から出てきたのは中年の男だった。
気味が悪いと不審に感じた主婦は、警察に通報した。
通報を受けて警察が駆けつけてみると、朝倉はあっさりと犯行を自供した。
警察が風呂場に行ってみると、一家五人の体が肉片と内蔵にバラバラにされて異臭を放っていた。
発見されたときは、遺体がバラバラにされていて何人の遺体があるのか分からなかったという。
朝倉幸治郎
不動産鑑定士
犯人は、東京都杉並区に住む朝倉幸治郎(48)で不動産鑑定士の男だった。
不動産鑑定士は、弁護士、公認会計士と並ぶ難関資格の一つで、不動産の鑑定業務を独占して行える唯一の国家資格。
現場となった住宅は、朝倉にとって初めての競売物件だった。
競売物件では、賃貸借契約を結んで物件を占有し、立退料を要求するということが当たり前のように行われていた。
事件前夜
不動産鑑定士として独立したばかりの朝倉は、1983年2月に東京都練馬区大泉学園町の競売物件を1億280万円で落札した。
624㎡の土地に建つ延べ床面積130㎡以上の二階建て一戸建てで、既に転売先も決まっており、十分な利益が出るはずだった。
しかし、対象となる一戸建てには、近所では不動産トラブルで有名な白井家の家族6人が住んでいた。
朝倉は、白井さんに立退料を支払うつもりで交渉していたが、白井さんは立退料引き上げのために、あれこれと理由をつけて立ち退きを伸ばし続けていた。
1億280万円の物件代金は、全額が銀行からの借り入れで、毎月の利息だけで100万円近くに上っていた。
借り入れは、朝倉が保有する資産を担保にして引き出したものだった。
このまま白井一家が立ち退かなければ、転売期限が過ぎ、損失は2000万円を超えるものと思われた。
立ち退きを引き延ばされ続けることに焦った朝倉は、破産が頭をよぎった。
焦りはやがて白井一家に対する憎悪へと変わっていった。
犯行概要
1983年6月27日の午後2時45分、朝倉は手提げバックを持って白井家のインターホンを押した。
出てきたのは白井さんの妻で「主人は出かけている」とのことだった。
それを聞いた朝倉は、「中で待たせてもらう」と半ば強引に住居に侵入した。
「警察を呼ぶ」と叫ぶ妻に対して、持ってきた手提げバックからハンマーを取り出して撲殺した。そして、すかさずその場にいた1歳の赤ん坊と三女(6)を殺した。
その後、学校から帰宅した次女(9)と白井さんを順次待ち構えて殺害し、5人の遺体を風呂場に運んだ。
長女だけが臨海学校に行っていたために難を逃れることができた。
5人の遺体を風呂場に運んだ朝倉は、あらかじめ用意してきた電動切断機を運び入れ、包丁、ノコギリ、手袋、ビニール袋を手提げバックから取り出した。
朝倉は、徹夜で遺体の解体作業を行った。
翌朝、「連絡がつかないから、様子を見に行ってほしい」と妻の母親から連絡を受けた隣の住人が様子を見に行ってみると、朝倉が出てきて「夕べ引っ越した」との返事だった。
朝倉の様子に不信を抱いた隣の住人が警察に通報したことで事件は発覚する。
現場に駆け付けた警察官は、あまりの凄惨な現場に絶句したという。
犯人の過去
朝倉は、秋田の出身で、父親は地元では有名な極道だったという。
朝倉を知る人物からは、礼儀正しい反面カッとすると何をするか分からない人物だと思われていた。
朝倉は、過去に親の遺産争いで揉めた際に弟の眼球をくり抜いて殺人未遂で懲役3年の刑の半血を受けて服役していた。
出所後、人生をやり直すために東京の不動産鑑定事務所に就職する。
鑑定事務所で修業した後に独立。
死刑判決
1985年12月、東京地裁において死刑判決が言い渡される。
1990年1月、東京高裁は控訴を棄却した。
1996年12月、最高裁が上告を棄却したことで朝倉の死刑が確定した。
2001年12月27日、朝倉の死刑が執行された。
模範的死刑囚
朝倉は、拘置所では模範囚として過ごし、刑務官からも評判が良かったという。
朝倉は、公判の途中から支援者との面会を拒絶するようになった。
死刑執行しやすい死刑囚がいるとすれば、死刑を執行しても支援者や外部団体から批判されることが少ない死刑囚だ。
支援者と面会している死刑囚を呼び出して、「支援者との面会を断らないとためにならない」と説得させることもあるそうだ。
朝倉は、拘置所では尋常ではないほど刑務官に対して丁寧だったという。
事あるごとに「ありがとうございます」と大きな声でペコペコとお礼を述べていたそうだ。
朝倉は、謙虚な態度を取ることによって、死刑の執行が避けられる、若しくは、先延ばしができると信じていたのではないか。
しかし、同時期に死刑が確定した死刑囚の中では、朝倉の死刑が最も早く執行された。