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鏡子ちゃん殺害事件は、1954年(昭和29年)4月19日に東京都文京区の小学校のトイレで小学2年生の女の子がヒロポン中毒者に殺害された事件。

5月5日に別件で逮捕された坂巻脩吉(20)が自供したことで事件が発覚、坂巻は逮捕された。

事件概要

1954年4月19日午前10時頃、東京都文京区にある元町小学校の2年生の女子児童が遊んでる途中でトイレに用を足しに行ったときに事件は起こった。

 

その日の坂巻は、夕べからお腹の具合が悪く、たまたま近くにあった小学校(元町小学校)のトイレを利用して用を足していた。

用を済ませた坂巻が別のトイレを見ると、少しドアを開けて用を足そうとしている女子児童がいた。

女子児童はドアを閉めるのを怖がり、普段からドアを少し開けたまま用を足すくせがあった。

 

女子児童の自宅は、学校から近く、学校から近い生徒の中には途中で帰ってしまう子もいたため、担任の教師は家に帰ったのだろうと考えていた。

 

母親が学校に女子児童が戻らないことを報告したため、行方不明として捜索することになり、女子児童の母親と学校の教師だけでなく、生徒も一緒になって捜索することになった。

12時頃、女子児童が口にパンツを入れられて無残に殺されているのを女子児童の母親が発見することになる。

犯人の逮捕

当初、警察は流しによる犯行とみていた。

流しとは、楽器や歌で街を流れ歩く人のこと。

 

流しによる犯行であれば、迷宮入りの可能性もあったが、トイレにつながる下水道管の中にイニシャルが入った坂巻のハンカチが見つかったことから事件は急展開する。

坂巻は用を足した際にハンカチで拭いて流していたため、ハンカチが証拠として残っていた。

結局、このハンカチが決め手となって事件から10日目に坂巻が逮捕される。

 

逮捕された坂巻は、悪びれる様子もなかった。

生い立ちから事件まで

逮捕時の坂巻脩吉は、静岡にある国立療養所で療養中だった。

坂巻の父親は厳格な人だったが、母親は浮気をしたり、ギャンブルで家の金を使い込むというだらしない人間だった。

母親は男の出入りが激しく、両親は常に喧嘩していた。

そんな環境で育った坂巻が身につけたのは、物事を深く考えないということだった。

 

その影響で坂巻も中学生の頃から暴力沙汰を起こして中学校を追われ、家を飛び出して日雇仕事をするようになる。

数年後、肺結核を病んだ坂巻はヒロポンを覚えてヒロポン中毒になった。

静岡の結核療養所を抜け出した坂巻は、父親のもとに顔を出し借金を頼むが断られる。

途方に暮れていたときにたまたま通ったのが事件のあった小学校であった。

死刑判決

犯行時20歳でヒロポン中毒、無計画という点を考慮するとせいぜい無期懲役といわれていた。

しかし、1955年4月15日に東京地裁においてくだされた坂巻の第一審は、死刑であった。

 

死刑判決後も坂巻は、まわりに冗談を言い、ふざけるなど、とても助かりたいという様子をみせなかったという。

一審判決で極刑が言い渡された際、刑務官が「判決はどうだった」と尋ねると、ケロリと「先生、おれ、死刑になっちゃった。」と他人事のような返答だった。

その後も坂巻は落ち込むことなく、刑務官から見てもまるで楽しそうに過ごしていたという。

 

翌年、1956年10月25日、最高裁が上告を棄却したため、坂巻の死刑判決が確定した。

裁判開始から1年半という異例のスピード判決だった。

 

東京拘置所では、子供の時に経験した運動会や遠足、空襲のことを楽しそうに話したという。

 

死刑確定後、坂巻は仙台に送られた。

東京に刑場が設置されるのは昭和41年になってからで、当時は死刑執行は仙台で行われていたからだ。

 

1957年6月22日、宮城刑務所において坂巻脩吉の死刑が執行された。

執行直前に供物のまんじゅうを勧められると2つもきれいに平らげたといわれている。

 

遺書を残さぬまま、死刑は執行された。

享年22歳。