奥野清がが起こした「母親バラバラ殺人」とは、昭和35年(1960)に大阪市住吉区で孝行息子と評判の息子が母親を殺してバラバラにした事件をいう。
事件発生直後、近所の人たちはどうしてあんな孝行息子が事件を犯したのかと信じられなかったようだ。
しかし、実際は見栄っ張りの母親に孝行息子は振り回されて悩んでいた。
奥野清の生い立ち
奥野清は、大正14年(1925)に風呂屋と雑貨屋を営む家庭に一人息子として生まれた。
奥野の性格は、意志が弱く内向的な性格で、母親には従順で逆らったことはなかった。
大阪府立城東職工工学校を中退後、漬物やに店員として勤めるがほどなくしてクビになる。
理由は、店の金をくすねて使い込んでいたというものだった。
その後、強盗殺人の共犯として大阪刑務所に服役する。
主犯の男に脅されて強盗殺人を手伝わされた結果、逮捕されたというものだった。
こんなところでも彼の性格が災いしてしまった。
懲役15年の判決を受けたて大阪刑務所に服役する。
奥野は、大阪刑務所始まって以来といわれるほどの模範囚として過ごし、昭和32年(1957)に仮釈放される。
奥野は母親を恐れていた
出所した奥野が実家に帰ると、母親が漬物屋を一人で始めていた。
奥野の母親の性格は、彼とは違って勝ち気で派手好きだった。
漬物屋の商売は上手くいかず、借金ばかりが増えていき、奥野が出所した頃には借金が20万円にも膨らんでいた。
見栄っ張りで気位の高い母親は、自分でお金を借りに行くのを嫌がり、奥野に指示してお金を借りに行かせた。
その後、奥野清は、鉄工所に勤めることになり、鉄工所の仕事が終わってからは母親の仕事を手伝った。
鉄工所も含め奥野の稼ぎは全て母親に渡したという。
奥野の妻は、何から何まで母親に従順だったと後に語っている。
出所後、家に帰るたびに母親から小言を言われ、奥野にとっては毎日が我慢の日々だった。
奥野は母親を恐れており、母親から解放されることだけを願っていた。
借金だけが増えていく
昭和32年に奥野は洋裁の仕事をしていた女性と結婚する。
最初は真面目に働いていた奥野だったが、やがて働かなくなり、仕事も辞めてしまった。
その後も母親が始めた漬物屋の商売は一向にうまくいかず、借金は倍以上になっていた。
借金の督促に困った奥野は、母親に漬物屋の商売をやめることを勧めるが、そのうち何とかなると言って聞き入れられなかった。
それどころか母親は、奥野に対し、商売が下手、そんな夜逃げのようなまねができるか、と叱りつけているほどだった。
借金の返済に悩んだ奥野は、母親を殺して家を売り、家を売ったお金を借金返済に充てることを画策する。
昭和35年6月8日、ついに奥野は母親を殺害した。
母親を殺害後、死体を押し入れに隠し、妻を実家に帰らせる。
6月9日に行李(竹や柳、籐などを編んでつくられた入れ物)に遺体を入れる際、足がはみ出てしまうため、死体はのこぎりで切断した。
バラバラにした死体を籠と行李に入れて、南河内郡美原町平尾池の雑木林に遺棄した。
母親が生前に、借金がなくなったら実家に家を建てて暮らしたいと言っていたため、母親の実家に近い南河内郡に死体を遺棄したのだ。
逃亡生活の後、1年4か月後に逮捕された。
死刑判決
この頃は、まだ刑法200条の尊属殺人罪の規定が残っており、尊属殺人罪が適用される。
一審で死刑判決が下されたため、控訴するが棄却、上告も棄却され死刑が確定した。
昭和39年2月7日、死刑確定。
昭和42年に死刑が執行された。
最後の言葉は、「お母ちゃん、今いくて、まっとれや。」だったという。