1960年に栃木県塩原温泉郷にあるホテル日本閣の経営者夫婦が失踪する事件が起きた。
しばらくして同ホテルの共同経営者小林カウ(50)とその共犯者大貫光吉(36)が逮捕された。
カウは、以前から男好きとして界隈では有名で、逮捕後も捜査官や裁判官に対して色仕掛けで迫り、マスコミはカウを塩原のお伝と呼んだ。
戦後初めて女性で死刑が執行された死刑囚でもあった。
小林カウ
ホテル日本閣殺人事件の経緯
1960年、小林カウは栃木県塩原温泉郷で、終戦直後の闇商売で稼いだ資金を元手に土産物屋と食堂を経営していた。
金にがめつく男癖が悪いことで近所では評判だったという。
当時のカウは、ホテル日本閣の経営者であった生方鎌輔(52)と不倫中であった。
鎌輔は、妻ウメと別れてカウと一緒になろうとして、ウメに別れを切り出すと、ウメは慰謝料として50万円を請求した。
その話を鎌輔から聞いたカウは、ウメを殺害して後釜として旅館の女将になることを計画する。
1960年2月、温泉街の流れ者だった大貫光吉(35)にウメの殺害を持ちかける。
最初は渋っていた大貫だったが、カウの執拗な要求に押され、ついにはウメをロープで絞殺した。
ウメを絞殺した後、カウ、鎌輔、大貫の三人は、死体を前にして酒盛りをしたという。
ウメの遺体を裏山に埋め、鎌輔にはウメが家出をしたように偽装工作をさせた。
そして、カウは平然とホテル日本閣の旅館女将におさまった。
カウは、新館の建て替え費用に300万円を出資したが、後から鎌輔に騙されたと怒り、殺害を計画する。
1960年の大晦日、カウと鎌輔は居間でテレビを見ながら過ごしていた。
鎌輔の隙をついて、背後からロープで襲いかかり、止めに入るふりをして大貫も襲いかかり、一緒になって鎌輔を殺害した。
翌1961年、鎌輔の殺害から2か月の後、カウと大貫は逮捕された。
塩原のお伝
小林カウは、逮捕後の取り調べで、8年前にも当時の夫を青酸カリを使って毒殺していたことを自供した。
また、いずれは旅館を放火して保険金を騙し取ることを計画していたと述べた。
その際に光吉も焼死に見せかけて殺すつもりだったことも明かした。
一連の事件が明らかになると、当時のマスコミは、カウを明治の毒婦高橋お伝になぞらえて「塩原のお伝」と書いて騒ぎ立てた。
お伝は、明治9年、東京浅草の旅籠で亡姉の夫に騙されたことに腹を立て、金品を奪って殺害したとして死刑になった女。当時の政府は、お伝を毒婦に仕立て上げることで、貞節の尊さを教えた。
獄中でも毒婦であり続けた
逮捕後のカウは以前にも増して積極的だった。
検事に色仕掛けで迫ったり、法廷に派手なカッコで登場して注意を受けている。
拘置所にあってもカウの金品に対する執着は変わらなかった。
ホテル日本閣が競売にかけられることを知って怒り暴れた。
カウは、拘置所や法廷で色気や愛想笑いを振りまいたが、検事や裁判官には通用しなかった。
死刑判決
1963年3月、宇都宮地裁の第一審判決で小林カウは、死刑を言い渡された。
命乞いのために上申書を書いてみたが、その内容はいい分けと他人への罪のなすりつけが書き連ねてあるだけのものだった。
当然、この上申書が功を奏すことはなく、東京高裁でも控訴は棄却される。
1966年7月14日の最高裁判決でも上告は棄却され、カウの死刑が確定した。
未決囚から既決囚となったカウは、人が変わったようにおとなしくなった。
1970年6月10日、所長から呼び出され、翌日の死刑執行が言い渡された。
死刑執行が言い渡された夕方、カウのためのささやかな晩餐会が開かれたという。
翌11日、東京拘置所から刑場施設のある小菅刑務所へと移され、そこでカウの死刑が執行された。
被害者への謝罪の言葉が出ることが一度もないまま、61歳の生涯はこうして閉じた。