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明治9年(1876)8月、東京浅草前片町の旅籠「丸竹」で男が血まみれになって死んでいるのが発見された。

同月29日、高橋お伝を強盗殺人容疑で逮捕すると、お伝はあっさりと犯行を認めた。

 

仮名垣魯文によって書き上げられた「高橋阿伝夜叉譚」によって紹介され、明治政府によっても毒婦に仕立て上げられたことで、お伝は「明治の毒婦」として有名になる。

高橋お伝

事件概要

明治9年(1876)8月28日、東京都浅草蔵前片町の旅籠「丸竹」に宿泊中の男性客が起きてこないので、女中が主人とともに部屋に入ってみると、布団の中で男性が血まみれになって死んでいた。

駆けつけた警察の捜査によって、前日の夜に部屋から出ていった女が帰ってこないことが分かり、警察は女を犯人と断定した。

 

事件が起きた頃、檜物町の古着屋後藤吉蔵が26日に大金を持ったまま帰らないことから家人が探していた。

家人が旅籠丸竹で事件があったことを知り、駆けつけて所持品を見せてもらったことで、殺害された男性が吉蔵であることが判明する。

 

警察は、吉蔵の女性関係を調べ上げ、8月29日には高橋お伝(29)を強盗殺人の容疑で逮捕した。

お伝は、「私がやりました」とあっさりと犯行を認めた。

高橋お伝の生い立ち

高橋お伝は、1850年に上野国(群馬)の前橋で生まれた。

 

19歳で同郷の波之助を婿にしたが、やがて波之助はハンセン病にかかり、村人から業病と騒がれるようになる。

そのため夫婦は、明治2年に故郷を逃げるようにして上京した。

 

二人は、異母姉のかねを頼って横浜へと移り、治療を始めるが、高い医療費のために生活は苦しかった。

お伝は、波之助の医療費のために体を売って金銭を稼ぐが、しばらくして波之助は亡くなった。

吉蔵の殺害まで

波之助が死亡した後、ほどなくして姉のかねも亡くなった。

このことについて、かねの夫で古物商の後藤吉蔵が、お伝を手に入れるために、波之助とかねを毒殺したとの噂がたった。

 

その後、お伝は病にかかり、神田仲町に移って養生していた。

そこで小川市太郎という男と知り合い内縁関係になる。

しかし、市太郎は定職がなく酒と博打に溺れる日々を過ごす、どうしょうもない男だった。

お伝はそれでも市太郎に尽くしたが、借金は増える一方で、返済もままならない状況だった。

 

困り果てたお伝は、亡き姉の夫である後藤吉蔵に二百円の借金を頼み込んだが断られた。

それでも引き下がって頼み続けたが、返事は同じだった。

 

事件の前日の8月26日、吉蔵がお伝のもとへやって来てお伝を誘った。

色よい返事がもらえると思ったお伝は、吉蔵と共に浅草蔵前片町の旅籠へ行く。

 

吉蔵は、酒を飲んではお伝の体を弄び、いざお伝が借金の話をすると、そんな金はないと吐き捨てて眠ってしまった。

翌27日、お伝は再度、吉蔵に借金を頼み込んだが、吉蔵はお伝の体を求めるばかりで借金のことを取り合おうとはしなかった。

怒ったお伝は、剃刀を取り出し、眠っている吉蔵の喉を切りつけた。

喉を剃刀で切られた吉蔵は声を発てることなく絶命する。

 

お伝は、死体に布団をかぶせ、吉蔵の財布から所持金11円を奪い、姉の仇を討ったという旨の書置きを残して逃走した。

姉が死亡した時に噂された、吉蔵によって毒殺されたという噂を利用したのか、お伝自身が噂を信じていたのかは分からない。

最後の斬首となった女囚

逮捕されたお伝は、強盗殺人をいったんは認めたが、裁判になると一転して否認した。

しかし、お伝の願いは虚しく二年後に斬首刑を言い渡された。

 

処刑はその日のうちに行われ、お伝は首を討たれるときに小川市太郎の名を呼んで暴れまわった。

最期は、首斬り山田浅右衛門によって三度目にねじ切られるようにして斬られたという。

 

お伝の遺体は、警視庁第五病院で解剖され、性器の標本が衛生試験場に保存されたという。

植えつけられた毒婦のイメージ

お伝の数奇な運命に目をつけた新聞が講談調で書いたおかげで世論の関心を集めることになる。

当時、忠孝、貞節を教育としていた明治政府は、お伝を毒婦とすることで貞節の尊さを教えようとした。

さらに政府の要請を受けて、「高橋阿伝夜叉譚」を戯作者の仮名垣魯文が書き上げたことで、益々お伝は毒婦に仕立て上げられてしまった。

 

後々まで毒婦として有名になるお伝だが、実際に殺人したのは一人で、それもお伝の体を度々弄んだ男だった。

体を売ったのも夫の医療費のためで、毒婦とは程遠かった。

夫が病気でなければ平凡な人生を送ったのではないだろうか。