「宇都宮監禁殺人事件」は、暴力団組長の後藤良次が組員と共に起こした殺人事件。
後藤は、上申書殺人事件と呼ばれる一連の事件でも実行犯とされており、上申書殺人事件は書籍化も映画化もされている。
宇都宮監禁殺人事件の概要
後藤良次は、群馬県前橋市にある広域指定暴力団・稲川会の大前田一家という組織の幹部で、自分でも後良組という暴力団の組長を務めていた。
後藤は、暴行や覚せい剤所持などによって平成6年に逮捕された後、平成10年に仮釈放で出所する。
後藤は出所したはいいが、やがてしのぎを維持するのが厳しくなり、知り合いを頼って水戸市へと行く。
水戸市に行った後藤は、そこで不動産ブローカー(上申殺人事件で首謀者とされる人物)を紹介してもらう。
不動産ブローカーと組んで犯罪を開始すると、急に羽振りがよくなり、高級車を乗り回すようになる。
羽振りがよくなった後藤であったが、元来の性格が短気で冷酷だったため、刑務所時代の仲間や暴力団関係の知人とトラブルを起こすことになる。
2000年7月、後藤は刑務所時代の仲間Xに対して、嘘をついたという理由で激怒し、暴力団の元組員小野寺宣之と謀ってXを車に誘拐監禁した。
Xの両手両足を縛ったまま、水戸市内にある高速道路の橋の上から、生きたまま那珂川に突き落とした。
数日後、刺青の入った遺体が大洗沖に浮かび上がる。
警察が被害者の携帯電話を調べた結果、後藤の名前が浮かび上がった。
同年8月、宇都宮に住む知人男性Aが不義理を働いたという理由で、元組員の小野寺他5人と押しかけ、Aと友人ら4人を監禁して暴行し、4人に覚せい剤を注射して飲食店店員の女性を急性薬物中毒で死亡させた。
その後、部屋に灯油をまいて火をつけて逃走した。
4人のうちの1人は、元々は後藤の使い走りで、この事件は新聞やテレビでも大きく取り上げられている。
後藤良次死刑囚
事件前の主な犯罪
昭和47年 14歳 窃盗、暴力行為で、宇都宮東警察署に逮捕される。初等少年院送致。千葉県内の少年院に1年ほど入院。
昭和51年 17歳 山形県内で、窃盗、器物損壊で山形県警に逮捕される。中等少年院送致。
昭和52年 19歳 器物損壊で宇都宮中央警察署に逮捕。特別少年院送致。小田原少年院と久里浜特別少年院に入院。
昭和53年 20歳 神奈川県裏が警察署に、公務執行妨害、傷害で逮捕。久里浜特別少年院で職員とトラブルを起こし、乱暴を働く。懲役1年4か月、水戸少年刑務所に服役。
昭和54年 20歳 茨城県警麻生警察署に、器物損壊、住居侵入で逮捕。懲役1年2か月、水戸少年刑務所に服役。
昭和56年 22歳 宇都宮東警察署に、窃盗、器物損壊、住居侵入で逮捕。懲役10か月、水戸少年刑務所に服役。
昭和57年 23歳 宇都宮東警察署に、恐喝で逮捕。執行猶予。
平成3年 32歳 宇都宮市の住吉会信和会栃木一家諏訪組組長を射殺。1年後に出頭し、群馬県警に逮捕。決定的な証拠がなく不起訴処分。
平成6年 36歳 群馬県前橋警察署に、暴力行為、覚せい剤取締法、銃刀法、火取法違反で逮捕。懲役4年、福島刑務所に服役。
判決
2003年2月、宇都宮地裁は、「暴力団特有の論理に基づく理不尽なもので、動機に酌量の余地はない。犯行を発案、実行した首謀者で、役割は決定的に大きい」として後藤に死刑判決を下した。
2005年10月の東京高裁でも、「非情のかぎりをつくした悪辣な犯行で、被告の冷酷さは常人の理解をはるかに超えている。監禁された4人のうち1人が縄を解いて自力で脱出し、消化していなければ残る3人も焼死していたと推測される。極刑はやむを得ない」として控訴を棄却した。
その後、後藤が上告中に上申書を提出する。
2007年、後藤の死刑が確定した。
出典
凶悪 ある死刑囚の告発 「新潮45」編集部編
映画「凶悪」
上申書殺人事件は、書籍化も映画化もされている。
宇都宮監禁殺人事件がどのようなものかは、書籍や映画を見ても分かるようになっている。