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「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」は、昭和35年(1960年)5月に東京のカバン会社経営者の長男・雅樹ちゃんが誘拐されて殺害された事件。

 

昭和35年5月、慶應義塾幼稚舎に通う尾関雅樹ちゃん(7)が登校中に誘拐された。

誘拐発覚後、犯人から電話で200万円の身代金の要求がされた。

しかし、身代金の受け渡しに犯人は現れず、誘拐から3日目の朝に路上に放置された車から雅樹ちゃんの遺体が見つかった。

警察は、本山茂久の犯行として指名手配したが、2か月間消息が分からなかった。

 

この事件がきっかけとなって報道協定ができたといわれている。

雅樹ちゃん誘拐殺人事件概要

昭和35年(1960)5月16日午前11時25分頃、東京のカバン会社社長宅に「子供を預かった、返してほしければ200万円を用意しろ、警察には届けるな」と犯人からの電話があった。

雅樹ちゃんを誘拐した犯人は、本山茂久(32)であった。

 

誘拐されたのは、東京のカバン会社社長の長男で、慶應義塾幼稚舎に通う尾関雅樹ちゃん(7)だった。

家政婦が犯人からの要求があったことを警察に通報する。

犯人の要求通りに身代金を家政婦に持っていかせたが、犯人は現場には現れなかった。

ほどなくして再び、本山から電話がかかってきて別の場所を指定してきた。しかし、犯人はまたも現れなかった。

その後再び、三度目の電話がかかってきて、次の身代金の引き渡し場所を指定してきた。

ところが今度も犯人は現れなかった。その夜、犯人からの電話で「警察が現場にいた」ことを知らせてくる。

そして、この電話を最後に犯人からの連絡がなくなる。

 

 

現在は、人質の安全を確保するまでは事件を報道しないという「報道協定」があるが、この事件の当時はまだなかった。

そのため事件の成り行きが全て報道されており、本山は自分の犯行が警察に筒抜けであることを報道によって知ることになった。

 

誘拐してきた雅樹ちゃんに騒がれないように睡眠薬を飲ませたが、次第に呼吸が衰えてきてしまった。

病院に連れていくわけにはいかないことから、本山は雅樹ちゃんの殺害を決意する。自分の犯行が警察に筒抜けであったことを知って動揺していたこともあったという。

本山は、雅樹ちゃん殺害後、遺体を遺棄するために車に積み込んでいたところ、警察が張り込んでいるのを発見する。

捜査が身近に迫っていると感じた本山は、遺体が入った車を乗り捨てて大阪へと逃亡した。

以後、2か月の間、消息が分からなくなる。

同居人は殺人鬼

大阪へ逃亡した本山は、布施の町工場で日雇仕事をしながら住み込みで働いていた。

本山は休日になると、ある書籍を何度も読んでいたという。その書籍には、犯罪者が罪を逃れる方法について書かれてあった。

 

本山が大阪で働くようになって50日が経過した頃、一人の青年が新しく住み込みで働くことになった。

青年は、本山を見てどこかで見たような気がすると思ったが、そのときはそれほど気に留めなかったという。

 

青年が飲みに行こうと交番の前を通った際、雅樹ちゃん誘拐事件の逃亡犯のポスターを見て、同僚に非常に似ていると思い警察に話してみた。

しかし、警察は証拠がないと相手にできないと、証拠を要求したため逮捕に至らなかった。

 

警察に相談したときに、犯人には盲腸の手術後があることを聞いていたため、風呂場でそのことを確認すると、確かに盲腸の手術跡があった。

しかし、世の中には盲腸後のある人はたくさんいる。これだけでは警察が動いてくれないと思った青年は、本山のいない間に本人の持ち物を探ってみた。

本山の持ち物を探ると、一冊のノートを発見する。

そのノートには、雅樹ちゃん殺害のことが描かれていた。

ノートには、「誘拐事件の主犯は別にいる」と書かれていたが、本山が雅樹ちゃん事件に関係しているのは間違いないと確信した青年は、ノートを持って警察へ駆け込んだ。

 

こうして逃亡から62日後本山は逮捕された。

 

本山茂久

生い立ち

本山茂久は、新潟県の裕福な農家の長男として生まれ、成績は常にトップだった。

東京の歯大生時代に学生結婚し、卒業後の勤務医を経て、28歳の若さで杉並区で独立した。

 

当時は珍しかった高級外車を乗り回し、仕事も家庭も順風満帆と思われたが、本山には愛人がいてその間には子供までいた。

順風漫歩に見えた生活は、実際は収入の大半を愛人に貢いでおり、運転資金も愛人のために使い生活は困窮していた。

発狂し糞を食べる

昭和36年3月の第一審で本山に死刑判決が下ると、本山は昼夜問わず幻覚や幻聴を訴え出しはじめ、しまいには自分の糞を食べるようになる。

日本では、死刑が確定していても死刑囚の精神が安定しなければ刑の執行は行われないため、死刑囚が精神異常者を装うことがある。

本山に対しても、精神異常者ということで一度は審理が中断されたが、4年後、落ち着いたとされて審理が再開した。

判決

昭和36(1961年)3月、死刑判決が言い渡される。

 

昭和42(1967年)5月25日、最高裁において上告が棄却され、本山の死刑が確定した。

 

昭和46年(1971)年、本山の死刑執行が執行される。

享年43歳だった。