昭和59年(1984年)5月5日の「日高興業所」の作業員の宿舎から起きた火事は、生き残った作業員の証言から、保険金を目的とした放火殺人だったことが発覚した。
犯人の日高安政と妻の信子は一緒に死刑判決が言い渡された。
日高安政と信子は、恩赦を期待して控訴を取り下げたが、その甲斐なく同じ日に死刑が執行された。
控訴取り下げによって自らの死期を早めることになったといわれている。
二人の出会い
日高安政と信子が知り合ったのは昭和45年(1970年)頃だったという。
安政が通っていたバーのホステスをしていたのが信子だった。
二人は再婚同士で、信子には連れ子がいたが、やがて二人は結婚することになる。
夕張市は、国の指導のもと、炭鉱によってつくられた街であった。
安政は、夕張で炭鉱作業員を派遣する会社を設立する。
しばらくすると安政は別の女性と上京し、信子も別の男と一緒になり、おかげで会社は倒産した。
その後、安政と信子はよりを戻して、再び炭鉱作業員を派遣する会社を設立するが、やがて安政が逮捕されたため、新たに信子が会社を設立する。
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
昭和56年(1981年)10月16日、今回の事件の伏線となる炭鉱事故が起きる。いわゆる「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」である。
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は、炭鉱事故としては戦後3番目に大きい死者93人を出す事故だった。
この事故で会社で雇っていた従業員7名が死亡し、日高夫妻の元には従業員に掛けていた保険金の1億3千万円が入ってきた。
思いがけず大金を手にした二人は、豪遊して保険金をあっという間に使ってしまい、借金だけが残った。
そこで思いついたのが今回の放火殺人であった。
夕張保険金放火殺害事件
事件は昭和59年(1984年)5月5日の夜に、日高夫妻が経営する日高興業所の従業員の宿舎で起きる。
突然の火事が発生し、宿舎で寝ていた子供2人を含む6人が焼死し、1名が窓から逃げて骨折、消火活動をしていた消防士1名が殉職した。
この火事で日高夫妻は、従業員4人に生命保険をかけ、寮には火災保険をかけていたため、合わせて1億3,800万円を受け取っている。
事件から2か月後、実行犯を名乗る者から警察に密告があって事件の全容が明らかになる。
実行犯からの密告
事件から2か月後、実行犯を名乗る者から警察に密告があり、放火が放火殺人であること及び日高夫妻が主犯であることが明らかになった。
昭和59年7月、夕張市の暴力団・日高組組長の日高安政と妻信子の夫妻は、病院に日高組組員の石川清の見舞いに行き、受け取った生命保険金のうちの70万円を手渡した。
石川清は火事があった日、窓から逃げて骨折したが命は助かっていた。
日高夫妻は、石川清に「従業員に酒を飲ませて寝かせ、火をつけて宿舎を燃やすよう」指示し、成功したら500万円を報酬として与えることを約束していた。
500万円もらえると思っていた石川が、報酬が少ないことを日高夫妻に話すと、「残りの金額は退院したら事務所で渡す」との返事だった。
退院したら殺されるのではないかと疑った石川は、病院を失踪し、夕張署に事件のことを密告した。
逮捕
石川は、密告したその日に逮捕され、石川の逮捕から4日後に日高安政と信子が逮捕された。
日高夫妻の逮捕により、保険金目的のために子供2人を含む6人を放火して殺害したことが明らかになった。
昭和62年3月、札幌地裁は実行犯の石川清に対して無期懲役の判決を下した。
主犯とされた日高夫妻に対しては、二人とも死刑判決が言い渡された。
恩赦に全てを期待した・・・・・・。
死刑判決を受けた二人は、助かる方法を探した。
当時、宮内庁は昭和天皇が重体であることを発表していて、各地で自粛モードが広がり、恩赦が期待されていた。
恩赦とは、国の行政権によって犯罪者の刑罰を軽減又は消滅させることである。
恩赦は国の慶事に行われることが多く、戦後の日本では死刑囚に対して3度の恩赦が行われており、合計で24名の死刑囚が無期懲役に減刑されていた。
ただし、恩赦を受けるためには刑を確定させる必要があり、控訴中の死刑囚は対象にならなかった。
実際、控訴を取り下げていた死刑囚が他にもいたため、夫妻は恩赦に期待して控訴を取り下げた。
控訴を取り下げた死刑囚の中には、恩赦があることを確信していた者がいたという。
日高夫妻も恩赦に期待して控訴を取り下げて刑を確定させた。
やがて昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成へと変わった。
しかし、期待した恩赦はなかった。
日高夫妻は、控訴を取り下げたことで死刑執行を早めただけだった。
平成8年12月20日、恩赦を期待して控訴を取り下げた死刑囚の今井義人と平田光成の死刑が執行された。
平成9年8月1日、午前10時札幌拘置所にて日高安政の死刑が執行された。同日正午、日高信子の死刑も執行された。