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清水定吉は、日本初の拳銃強盗犯として知られている。

明治15年(1882年)からの4年間で80件以上の強盗被害が起こり、そのうち5人が殺害された。

事件は「ピストル強盗清水定吉」「清水定吉」として映画化もされている。

事件概要

明治15年(1882)から4年間にわたって、首都東京でピストル強盗事件が80件以上にわたって連続して発生し、そのうち5人が殺害されるという事件が起こった。

ピストル強盗事件は、日本で初めてのことであり、4年間何も手掛かりがつかめない警察に、当時の住民は苛立った。

 

 

明治19年(1886年)12月3日、東京日本橋の絵草紙屋、石川スズ方に35歳くらいの男がピストルを持って押し入るという事件が起きる。

家人の岡島長次郎が声を出したため、男は長次郎に向かって発砲して逃走した。

それを見ていた近くにいた人力車の車夫が、最寄りの派出所に通報した。

通報を受けた久松警察署の小川佗吉郎巡査が現場に向かう途中、不審な男がいたため、呼びとめると「私は按摩で、得意先に治療に行くところ」だという。

巡査が懐に入れた両手を出せと命じると、男はいきなり短刀を振るって襲い掛かった。

巡査は左手に重傷を負ったが追いかけて逮捕した。

 

逮捕された男は、当初、太田清幸と名乗ったが、それは偽名で実際の名前は、清水定吉(50)だった。

清水定吉の自宅を捜査してみると、血痕が付着した刀や、凶行に用いたと思われる道具が数点見つかり、証拠を突き付けられた清水はついに観念して自供した。

清水定吉の生い立ち

清水定吉は、1837年に江戸浅草で武士として生まれたという。

逮捕時は、本所松坂町2丁目で按摩師をしていた。

清水は、浅草で僧侶をしていたが、放蕩好きだったため、常に金銭に不自由していた。

たまたま明治15年に日本橋浜町の道路でピストルと実弾59発を拾ったことから強盗を思いつき凶行に及んだという。

一度ピストル強盗を試してみると、あっさりと成功したため、次々に金品を強奪し、強盗に入った家は80軒を超えた。

 

清水は、夜になると按摩の格好をし、町を歩いて獲物を物色するという手口だった。

昼間は按摩師として働きながら家々を物色し、夜になるとピストル強盗として悪事を働いた。

その後

清水定吉を逮捕する際に、ピストルで撃たれ、左手を切った小川巡査は、2階級特進して警部補になった。

明治20年2月に退院したが、その後、再び傷が悪化して逮捕から4か月後の4月26日に24歳で亡くなった。

 

明治20年8月11日、清水定吉は死刑判決を言い渡された。

翌9月に清水の死刑が執行された。

 

 

 

日本猟奇・残酷事件簿 合田一道・犯罪史研究会