「夜嵐おきぬ」は、原田きぬが犯した事件を取り上げた作品。
明治5年2月20日、東京浅草で一人の女性が梟首(さらし首)を言い渡され、3日間に渡ってさらされたという。
女性の近くには、立札が立てられ、その立て札には「小林金平の妾にて浅草駒形町四番地に住む 原田きぬ29歳は、嵐璃鶴という男性と不義密通を重ねたうえ、主人を毒殺した。このことは不届き至極なので梟首を言い渡され、20日に処刑となった。昨日22日までの3日間浅草でさらされた。」と書かれてあった。
おきぬは処刑される前に、「夜嵐の さめて跡なし 花の夢」との辞世の句を詠んだことで、夜嵐おきぬと呼ばれるようになった。
おきぬ芸者になる
おきぬが16歳の頃、両親と死別し芸妓になることとなった。
おきぬは大変な美貌の持ち主であったため、何人もの歌舞伎役者と関係を持った。
やがて東京に住む小林金平に身請けされ、金平の妾になった。
しかし、おきぬは嵐璃鶴(りかく)と密会し、関係を持っていた。璃鶴は歌舞伎役者で水もしたたる美少年だった。
璃鶴と逢瀬を重ねるうちに、将来を約束する仲になり、障害となった主人・金平を殺鼠剤で毒殺したという。
きぬの裁判
きぬは逮捕され、主人殺しによって梟首が言い渡された。
璃鶴は、徒刑(労役)10年の刑であった。
きぬは逮捕時、身ごもっており、「新聞雑誌」によれば、きぬは獄中で男子を出産し、産まれた子は身寄りのものに預けられたという。
璃鶴は、その後景気が短縮され、3年後に出獄した。
璃鶴は、出獄後は市川権十郎を名乗り、「新聞雑誌」一首詠んで投稿した。
「罪は皆みそぎぞ果たし隅田川 きよきながれを汲みぞ嬉しき」
おきぬは毒婦に
裁判後、おきぬは明治5年(1872)2月20日、東京浅草で処刑されたうえ、死体がさらされた。
死体のそばに立てられた立札には、「この者、妾の身分にて嵐璃鶴と密通の上、主人金平を毒殺に及ぶ段不届き至極に付き、浅草において梟首に行う者也。」
処刑されたのは、東京府貫属小林金平の妾にて浅草駒形町四番地借店 原田キヌ 二十九歳
と書かれてあった。
きぬは、璃鶴という男性と不義密通を重ねたうえ、主人を毒殺したため、不届き至極であるから、梟首(さらし首)に処したというのである。
当時は、本妻以外にも妾を持つことが認められ、さらに妾であっても貞淑を要求されていた。
きぬがさらされると、新聞はきぬの悪行を書き立て、きぬの死体にはたくさんの人でにぎわった。
雑誌は特集を組み、出版物も多く発売され、きぬの雑誌は発売と同時に売り切れるほどの人気だったという。
出典
日本猟奇・残酷事件簿 合田一道・犯罪史研究会
日本猟奇事件白書