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駅止め殺人事件は、1957年(昭和32)5月2日午後4時頃に博多駅で発覚した殺人事件。

当時は、物を運ぶ手段が発達していなかったので、遠くに物を運ぶ手段は限られていた。

遠くに荷物を運ぶ手段として国鉄(JR)が使われていた。

 

博多駅構内の貨物倉庫で異様な悪臭が発生しているのを駅員が発見する。

博多署員立ち合いの下、梱包の木箱を開けてみると、布団にくるまれた人間の腐乱死体が入っていた。

遺体の特徴

梱包の木箱に入れられていた遺体は、頭蓋骨が砕かれ死後2か月が経過して腐乱していた。

他にも頭部には5か所の傷があったという。

 

死亡原因は、頭部を殴られたことによる死亡だった。

 

遺体は、死後2カ月が経過していたため、人相の判定は不可能だった。

そのため、人相以外の人的特徴を調べるしかなかった。

 

被害者は、1m53㎝と小柄で手足が小さく、肉体労働者ではない様子だった。

年齢は30歳位と推定され、スポーツパンツを履いていて、丸首シャツを着用していた。

だが、所持品から身元につながることはなかった。

荷物の足取り

荷物の発送人は、「名古屋市中村区牧野町 東海レントゲン株式会社」とあり、受取人は、「福岡市博多駅前・神野病院 神野良三様 博多駅止め」と書いてあった。

物流が発達していなかった時代であったため、「駅止め」として指定した駅に荷物を発送し、後日受取人が指定した駅に荷物を取りに行くということがしばしば行われていた。

 

荷物の足取りをたどるため運送会社をあたったところ、荷物は東京の汐留駅から名古屋(笹島駅)を経由し、博多に送られていたことが判明した。

つまり、事件の犯行現場は東京ということになる。

 

東京、愛知、福岡にそれぞれ捜査本部が設置された。

それぞれの捜査本部が協力して捜査した結果、東京から名古屋への荷物の発送人と受取人が判明した。

発送人は、「前田電機株式会社 前田一夫」とあり、受取人も「前田一夫 名古屋駅止め」になっていた。

 

 

聞き込み調査により、名古屋駅止めの荷物を受け取った人物は、「身長165cm前後、顔は面長の二枚目」ということが分かった。

再び名古屋駅から福岡駅へと送られたのは、例の遺体が入った荷物だった。

その荷物を運送会社に持ち込んだ人物の身体的特徴も、「身長165cm、面長の二枚目」だった。

これらの聞き込みから、荷物の発着にかかわった人物は同一人物と断定された。

 

しかし、名古屋から福岡に発送した荷物の受取人の名前は、「神野良三」という別の人物の名前だった。

 

汐留から名古屋、そして博多へ遺体を梱包した犯人を捜索してみたが、「前田電機株式会社」も「前田一夫」も「神野良三」もどこにも存在しなかった。

聞き込み調査

前田一夫について、行方不明のものや怪しいものを調べたが、一向に進展しなかった。

 

被害者の身元を明らかにするため、遺留品から聞き込み調査を行うことになった。

遺留品は、縄、布団袋、三枚の布団、被害者が来ていた衣服、三枚の荷札だけだった。

 

苦心の聞き込み調査によって、布団袋のチャックから、犯人が新宿周辺で布団を手に入れた事実を突き止める。

新宿周辺の布団販売店で地道に聞き込み調査を行った結果、ある布団販売店で本田彰(仮名20歳)という人物が従業員として勤めていたが、半年ほど前に勤めていた会社を急に退社し、洋服生地を持ち逃げしていたことが分かった。

 

社長は本田の行方を追おうと思ったが、居所が分からなかったため、本田と親しかった中野(仮名)という人物に連絡を取ることにした。

そして、中野の自宅を訪ねたが、中野は引っ越しした後だった。

 

刑事が本田の筆跡と遺留品の荷札の筆跡を比べてみると非常に酷似していた。

犯人逮捕

中野が引っ越し前に住んでいたアパートへ行き、周辺住民から聞き込み調査を行うと、中野の引っ越し手続きを行ったのは本田ということが判明した。

さらに刑事が調査を進めると、中野の荷物の引っ越し先は本田の住んでいるアパートだということが分かった。

 

 

刑事が引っ越し業者を訪ねて運送員に聞き込みを行うと、本田は中野の荷物をアパートに運ばさせ、翌日には本田の新しい下宿先に再び荷物を運ばせたという証言を得た。

そして、新しい下宿先に運んだ荷物の中には、例の遺体が入った木箱に似ている荷物があったことも判明した。

 

刑事が本田の新しい下宿先に行くと、本田は逃亡した後だった。

新しい下宿先の大家に聞いてみたところ、引っ越してきた2日後に運送会社が重い荷物を運び出していたという証言を得た。

そして、運送会社に問い合わせて調べさせると、その荷物の送り先は、「汐留駅運送会社支店窓口」であることが判明。

遺体が入った箱に間違いないことも分かった。

 

本田に対する逮捕状が出され、遺体発見から19日目の5月21日、逃亡先の岡山県玉野市の叔父の家にいた本田を逮捕した。

犯人の生い立ち

8歳で終戦を迎えた本田彰は、父を戦死でなくし、母も間もなく病気でなくしていた。

 

中学を卒業後、叔父夫婦に引き取られるが、叔父夫婦の家で金銭を盗むようになった。

しばらくして玉野市内の鉄工所に就職したが、ほどなくして退職した。

 

その後、東京に働きに出るが、働いては直ぐに辞めてを繰り返し、行く先々でトラブルを起こしていた。

詐欺で逮捕されて兄に引き取られたこともあった。

 

やがて行商の仕事を始め、北海道では後に殺される中野と知り合いになった。

中野は行商の先輩で業界に信用があったため、中野が問屋から生地を仕入れて「駅止め」で送り、それをコンビで行商するようになった。

犯行動機

本田は、元々猜疑心が強く、次第に中野が儲けを誤魔化して自分ばかり儲けているのではないかと疑い出すようになった。

そして、3月5日午後、このことで二人は口論になる。

一旦中野を座らせ、本田はあらかじめ隠しておいた丸太を中野の背後から後頭部に振り落とし、何度も頭部を殴り続けた。

 

本田は、中野の死体を布団で包んで木枠で梱包し、宛先には「前田一夫 名古屋駅止め」と書いた。

判決

本田彰へは、一審判決で無期懲役の判決が下った。

検事が「死刑」を適当として控訴するも棄却され、無期懲役が確定した。

 

本田は、獄中で手記を書き、手記の中で「戦争がなかったら両親は死ぬこともなく、家族は平和に暮らしていただろう、自分は戦争が憎い」と書いている。