「ピアノ騒音殺人事件」は、1974年(昭和49年)8月28日に神奈川県平塚市にある県営団地の3階で起こった。
近隣騒音という問題が初めて浮き彫りになるきっかけとなった殺人事件であった。
ピアノ騒音殺人事件概要
当時、妻は定職に就かない大浜松三(46)に愛想をつかして実家に帰っていた。
大浜は、妻に対しても音にうるさく、音をたてて歩くな、戸の開け閉めは静かに、テレビはイヤホンで聴けなど、音に対して過敏だった。
大浜は、独身時代に騒音で苦情を言われてからは、テレビはイヤホンで聴き、洗濯も手洗いなど、神経質すぎるほど周りに気を使っていた。
他人の音に対してもうるさい大松は、階下の家族が発する音が気になって仕方がない。
事件の9カ月前には、情操教育という名目で階下の奥村家にピアノが運び込まれる。
階下に住む子供にとっては何気なく弾いているピアノだったが、大松にとっては相手の行為が悪意をもっての嫌がらせとしか感じられなくなる。
大松は、階下のピアノの音におびえ、ピアノが鳴り出すと外出して図書館や河原で時間を過ごしていた。
やがて大松は、「どうして自分だけがこんなに苦しまねばならないのか、こうなったら相手を殺して自分も死のう」という考えにいたる。
1974年8月28日の午前7時頃、4階に住む無職の大浜は、階下から聞こえてくるピアノの音でイライラと共に目を覚ました。
妻に小言を言おうにも実家に帰っていなかった。このこともイライラの原因になっていた。
ピアノを弾いていたのは、夏休み中の8歳の長女であった。
学校のある日は帰宅後にピアノの練習をしていたが、この日は夏休みだったため、7時過ぎから練習をしていた。
ピアノの鳴る音で起こされた大浜は、ピアノの音に激怒し、階下の主人が出勤したのを見計らって、1週間前に購入した刺身包丁を持って奥村家に押し入った。
奥村家に押し入った大浜は、まず、ピアノを弾いていた8歳の長女の胸を刺して殺害し、近くにいた4歳の次女も刺して殺害した。
その後、ごみを捨てに行っていた母親が戻ってくるとすかさず刺殺した。
殺害現場のふすまには、「迷惑かけるんだから、すいませんの一言くらい言え、気分の問題だ、来た時あいさつにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」という文句を書き残し、自殺するためにバイクで逃走した。
しかし、自分では死にきれず、3日後に平塚署に自首した。
逮捕後、警察の取り調べで、残された父親に誰がやったのかを知らせるためにふすまに書き残したと供述している。
あいさつというのは、引っ越して来た時にあいさつに来なかったことを指しているとも供述した。
騒音問題
事件があった1974年(昭和49年)頃は、年収の3分の1という高い買い物であったにもかかわらず、情操教育という名目からピアノがブームになっていた。
国内のピアノ生産台数は、最高記録に達し、騒音が問題化していた。
ピアノだけでなく、住宅環境をめぐる騒音トラブルは増加の一途をたどっていたが、まさか騒音トラブルが殺人にまで発展するとは誰もが思ってはいなかった。
大浜の妻によれば、確かに大浜は音に過敏であったが、奥村家のピアノについても度を過ぎていたと発言している。
大浜がピアノの音に対して奥村家に注意をしてからは、不規則に一日練習し、大浜の帰宅をみはからって練習することもあったという。
犯人は死刑を望んだ
自殺しようと思って死ねなかった大浜は、当初「死刑になりたくてやった」と裁判で発言しているように死刑を望んでいた。
公判でも「行ったことを悔いてないし、被害者に申し訳ないとも思っていない」と述べている。
1975年10月20日、第一審の判決は死刑であった。
弁護人は控訴するが、大松は自ら控訴を取り下げて1977年4月16日、死刑を確定させる。
元々、大松自身が死刑を望んでいたし、拘置所での騒音に悩まされていたことにも関係があった。
このまま騒音に悩まされて生きるより、死刑になった方が良いと弁護士に話している。
自殺のために他人を殺害し、自殺のために死刑を確定した大松であったが、現在も生かされている。