Pocket

平成9年5月4日午後、奈良県添上郡月ヶ瀬村大字嵩集落に住む中学2年の女子生徒が行方不明となった。

女子生徒が行方不明になってから2カ月半を経過した7月23日、奈良県警に逮捕されたのは村の住人から差別を受けていた丘崎誠人だった。

逮捕後、丘崎は女子生徒を殺害したことを自供し、奈良警察が丘崎の自供した場所を捜索すると、女子生徒の遺体が見つかる。

 

丘崎は、無期懲役の判決を受けた後、平成13年9月4日に収監先の大分刑務所で自殺した。

月ヶ瀬村女子中学生殺人の概要

平成9年5月4日の午後2時半から3時頃に、奈良県添上郡月ヶ瀬村大字嵩集落に住む中学2年の女生徒が、県の卓球大会からの帰宅途中に行方不明となった。

 

奈良県警の懸命な捜索活動によって、嵩集落に続く三叉路でタイヤのスリップ痕、被害者の靴、自動車の塗料が発見された。

付近のガードレールには、血痕が付着しており、また、現場近くにある山中の公衆トイレの浄化槽からは被害者女子生徒のジャージ、下着、リュックといった遺品が発見された。

被害者女性との遺品と共に、犯人のものと思われるダウンベストとビニールテープも見つかった。

 

村の住人への聞き込みから、ダウンベストは嵩集落に住む丘崎誠人(25)が日頃着ているものと酷似していることが分かった。

 

丘崎は被害者女生徒の最後の目撃者であったことから、奈良県警からマークされ、マスコミも連日丘崎のもとに押しかけるようになる。

丘崎は「疑われてえらい迷惑や」とマスコミの前で犯行を否定している。

 

事件から2カ月半が経過した7月23日、奈良県警は丘崎の逮捕に踏み切った。

丘崎は、奈良県警に逮捕された後も犯行を否定していたが、現場に残されていた遺品、ダウンベストとビニールテープ等の証拠をつきつけられると、逮捕から9日後に犯行を自供した。

 

丘崎の自供した通りに三重県上野市郊外の御斎峠(おとぎとうげ)を捜索したところ、白骨化した女生の遺体が発見された。

犯人の自供

丘崎誠人の犯行動機は、女子生徒にいたずらするためだったという。

 

5月4日未明に滋賀県の雄琴にあるソープランドから月ヶ瀬村に戻った丘崎は、村営駐車場に愛車の三菱ストラーダを停めて仮眠していた。

目を覚ました後、午後2時過ぎに自宅へ帰るため愛車を走らせると、途中の道で帰宅途中の女子生徒を発見する。

丘崎が女子生徒に乗っていくかと声をかけると、女子生徒は丘崎を無視してそのまま通り過ぎた。

女子生徒に無視されてカッとなった丘崎は、女子生徒の背後からクルマを追突し、女子生徒を車に乗せて連れ去った。

 

丘崎はクルマを走らせながら冷静になると、病院や警察に女子生徒を連れて行くことも脳裏をかすめた。

しかし、自分が犯人であることが露見すれば、家族までが村に住めなくなると思い、殺して死体を隠すことにしたと述べている。

 

丘崎は、女子生徒をクルマに乗せて御斎峠に行き、ビニールテープをひも状にして女生徒の首に巻き付けると、力いっぱい引っ張った。

その後、近くにあった人頭くらいの大きさの石を持ち上げ、上から女子生徒の頭めがけて何度も投げつけると、やがて女子生徒は絶命した。

丘崎一家

丘崎誠人には、両親と三人の姉と妹がいたが、事件当時は両親、長姉と妹、長姉の三人の子と暮らしていた。

丘崎一家は、誠人が生まれる数年前に嵩に引っ越してきたという。

誠人の両親は、父母共に日本人と朝鮮人のハーフで、土木作業の仕事に就き、茶摘み農家しかない嵩部落では浮いた存在だった。

 

小学校時代の誠人はおとなしかったという。

月ヶ瀬中学校に入学し、2年生になってからはほとんど学校に行かないようになり、友達は1人もいなかったそうだ。

父には愛人がおり、母親や長姉には昵懇だった男が何人もいたという。

 

誠人は中学校を卒業した後、測量事務所や土木作業員、警備員などの仕事に就いたが、どの仕事も長続きはしなかった。

事件当時は、仕事をせず、ゲームや車にハマっていた。

また、滋賀県の雄琴にあるソープランドにも度々車を走らせるほどハマっており、犯行時も雄琴からの帰り途中だった。

丘崎一家に対する村人の差別

誠人の供述によれば、一家は村の住人から朝鮮人を理由に見下されていたといい、自分や家族が差別され続けていたことも犯行の動機の一因と述べている。

 

嵩部落には、今も昔から続く与力制度というものがあり、区入りするには与力2人の推薦が必要だった。

丘崎一家は、30年以上に及んで嵩部落に住んでいたのに、村の一員に加える区入りをしておらず、村八分の状態であったという。

 

丘崎家の借家は、今は取り壊されているが、事件当時は薄暗い雑木林のじめじめした場所にあった。

ベニヤ板とトタン屋根のボロ小屋で、風呂は薪をくべ、トイレはなかった。そのためトイレは裏山に穴を掘ったものを利用していた。

村の住人からは、臭くて臭くてかなわんと蔑まれた。

 

誠人が小学生の頃、部落の公民館が放火されるという事件が起こるが、疑われたのは誠人だった。

誠人の供述によれば、ビニールハウスが燃えたときや、祭りの際に現金が紛失したときも疑われたと語っている。

判決と自殺

一審では懲役18年の判決が下り、検察はこれを不服として控訴した。

平成12年6月、大阪高裁は丘崎が主張する差別について認めず、丘崎に対して無期懲役の判決を下した。

丘崎は、上告をしなかったために無期懲役刑が確定した。

 

生きることにうんざりした丘崎は、平成13年9月4日午後8時頃、大分県の刑務所の独居房で首を吊って自殺した。

享年29歳だった。