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当時9歳だった小学生の女の子は、監禁から解放されたときには19歳になっていた。

 

1990年11月、少女が小学校から自宅に帰る途中、一人の男が車から降りてきた。

男は、持っていたナイフを少女に突きつけ、無理やり車のトランクに少女を閉じ込め自宅へと連れ帰る。

こうして少女の日常は壊され、再び外に出ることができるのは9年2カ月も後のことだった。

 

2000年1月28日、新潟県柏崎市の佐藤宣行宅に、母親から家庭内暴力の相談を受けた保健所の職員が訪ねる。

すると、佐藤のベッドに少女が隠れるように布団をかぶって潜んでいるのを職員が発見、事件が発覚した。

保護された少女は、9年2か月前に三条市で行方不明になった少女であることが分かった。

佐藤宣行の生い立ち

佐藤宣行は、1962年にタクシー会社役員の62歳の父親と36歳の母親との間に新潟県の柏崎で生まれた。

年老いてからの子供ということで、佐藤は両親に「ボクちゃん」と呼ばれて可愛がられ、欲しいものは何不自由なく買ってもらったという。

 

佐藤が小学生に上がる頃、両親は新築を購入し、佐藤は2階の十畳ほどの部屋を与えられた。

佐藤が中学に上がった頃、「学校が怖い」というので病院に連れていくと、「不潔恐怖症」と診断される(父親も不潔恐怖症だった)。

佐藤はわずかな汚れも気にする性格で、年老いた父親は佐藤からみると汚く見えた。

佐藤は、父親が年を取ってからできた子で、小学校の頃に同級生からからかわれたことがあった。

やがて父親を「ジジイ」と呼んで毛嫌いするようになった。

 

父親に対する暴力はエスカレートし、次第に母親に対しても暴力を振るうようになる。

しかし、それでも両親は息子を叱らず、謝るばかりであったという。

 

高校に上がった佐藤は、なよなよしたしぐさから同級生にオカマと呼ばれるようになり、自宅に引きこもるようになる。

なんとか高校を卒業した佐藤は、自動車部品を製造する会社に就職するが、些細なことで家に引き返したり、適当な理由をつけては会社に行かなかったりして、数か月で会社を退職してしまった。

以後、佐藤が働くことはなかった。

最初の誘拐

佐藤が19歳とき、佐藤からの暴力に耐えきれず、父親は家から出て老人ホームに入った。

2人になった母親と佐藤は、ある時ささいなことで口論し、佐藤が仏壇に火をかけて火事になりかけることがあった。

母親が佐藤を精神科へ連れていくと、「強迫神経症」と診断されて1か月ほど入院した。

 

その後、佐藤は母に自立するといって家の増築を頼むと、その言葉を信じて母親は承諾する。

しかし、不潔恐怖症の佐藤は、建築業者が部屋に入ることを拒否し、増築も途中で終わり自立もすることはなかった。

 

その後も佐藤は変わることはなかった。

1989年、佐藤が27歳の時には、下校途中の小学生の女の子を「可愛い」という理由で誘拐しようとして、学校の職員に見つかり逮捕される。

判決の結果は、懲役1年、執行猶予3年だった。

佐藤は保護観察にされず、監督は母親に任され、警察は前歴者リストに佐藤を登録するのを忘れた。

このミスが監禁を長引かせることにつながったといわれている。

新潟少女監禁事件

執行猶予中にもかかわらず、佐藤は下校中の9歳の少女をナイフで脅して誘拐する。

母親にばれないように少女を自分の部屋に入れ、少女が少しでも音を立てると佐藤は激しく怒った。

事件後のインタビューでは、近所の住人は少女が監禁されていることに全く気付かなかったと語っている。

 

少女が音を立てたり、反抗的な態度をとると、容赦なく殴る蹴るの暴行を加えた。

佐藤は女の子を、部屋に出ないようにいいつけ、排泄はビニール袋にさせ、入浴もさせなかった。

少女がお風呂に入れたのは、9年2か月の間で1度だけだったという。

 

女の子の両親は、連れ去れた日に捜索願を出したが、一向に手掛かりが見つからなかった。

新潟県警は、前歴リストの登録者を対象にして捜査を開始する。

佐藤には前科があったが、新潟県警が登録するのを忘れてしまい、捜査対象から外されていた。

このことは後々、警察の不祥事として問題となる。

 

少女は手足を縛られ、声を出さないよう、ベッドからおりないように言われた。このことを守らないとスタンガンで暴行された。

少女は、スタンガンの痛みで声を出さないように、自分の身体や毛布を噛むなどして耐えた。

痛みになれるように自らスタンガンを身体にあてることもした。

 

時には、目を殴られて失明しないよう、自分から頬を差し出すこともあった。

少し気に入らないだけでも佐藤は少女に暴力を加え、暴行は1,000回以上にも及んだという。

事件の発覚

佐藤の暴力は、母親にも向けられていた。

佐藤の暴力に限界を感じた70歳過ぎの母親は、精神病院に助けを求める。

やがて佐藤の医療保護入院が決まり、保健所、市役所、医療関係の職員が7人で佐藤の自宅を訪ねた。

 

職員を見た佐藤は、「帰れ」と言って暴れ出した。

職員が鎮静剤を投与すると、佐藤は次第に大人しくなって眠りにつく。

騒動の中、少女はいいつけ通りベッドの上で大人しくしていたが、布団のふくらみに気づいた職員に発見され、事件は発覚する。

 

関係者が佐藤の母親に少女について聞くと、母親は「知らない」と答えた。

警察が名前を聞いて調べたところ、その女性は9年2か月前に三条市で行方不明になった女子児童であることが判明した。

少女は、9年2か月ぶりに母親と再会を果たした。

警察の不備・不祥事

事件当時は、警察の不祥事が相次ぎ、たびたびニュースに取り上げられていた。

新潟の三条署でも、警察官が複数の未成年に対してわいせつ行為で諭旨退職するなど問題を起こしていた。

 

佐藤逮捕後、この事件がなぜ発覚まで9年以上もかかったのかが問われた。

 

被害女性の発見時、面倒という理由で警察は出動を拒否しており、本部長も接待マージャンを優先して出勤したのは翌々日という失態をさらしてしまう。

結果として新潟県警本部長は辞職し、警察庁長官が公安委員会から処分を受けた。

判決

2003年6月、最高裁は佐藤に対して懲役14年の判決を下した。

 

裁判では、9年以上にわたり少女が監禁されたことに佐藤の母親が本当に知らなかったのかが問題となった。

佐藤は、母親が2階へ上がることを極端に嫌って禁止しており、階段からは母親の指紋が発見されなかったため、母親は無罪となった。

 

 

参考文献

14階段 検証新潟少女9年2か月監禁事件  窪田順生

新潟少女監禁事件 密室の3364日  松田美智子