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1949年7月15日午後9時過ぎ、中央線三鷹駅で7両編成の列車が暴走して脱線し、民家に突入して6人が死亡、13人が重軽傷を負うという痛ましい事故が起こった。

10日前には、下山国鉄総裁が謎の轢死体となって発見されていた。

さらに、1か月後には福島県で国鉄脱線事故が起きる。

 

当時の国鉄では、10万人の人員削減を行っている最中ということがあって、人員削減に反対する者と共産党員の仕業ではないかと噂された。

 

事件発生後には、当時の首相である吉田茂が共産主義者による犯行ではないかと話している。

警察も共産党員による実力行使とみて、共産党員たちが次々と逮捕され、10人が起訴された。

この10人の中にいたのが、前日に解雇通告をされた竹内景助である。

逮捕された10人のうち、竹内以外は共産党員であった。

 

三鷹事件は、不明な点が多く、今も冤罪説や陰謀説が主張されている。

当時の日本の状況

当時の日本は急速に左翼主義が勢いを増しており、昭和24年(1949年)の総選挙で日本共産党が35議席を獲得するなど躍進した。

 

日本の左傾化に対して危機感をつのらせていたのが、当時日本に進駐していたGHQであり、GHQは政府に圧力を加えていた。

 

国鉄は6万3千人の整理を発表したばかりだった。

また、事件の10日前には、国鉄総裁の下山定則が列車にひかれて発見される、いわゆる「下山事件」が起きていた。

竹内景助

竹内景助は、長野県の養蚕農家の次男として生まれた。

祖母は松代藩士の娘で、竹内は祖母のいいつけをよく聞く素直で真面目な少年だったという。

竹内は16歳になってあこがれだった鉄道員になるため上京し、翌年、念願の鉄道局に採用された。

20歳で10歳年上の女性と結婚し、三男二女をもうけた。

 

逮捕された10人のうち共産党員でなかったのは、竹内ただ一人だった。

 

後に竹内は、雑誌に「おいしいものから食べなさい」という手記を発表していて、その手記で「必ず近いうちに共産党政府が樹立され、たとえ自分が罪をかぶってもいつか出所して理想の政府ができるならいい」と述べ、おいしいものから食べない自分の性格が災いしたと語っている。

翻弄された死刑囚

逮捕された10人のうち竹内だけが共産党員ではなかった。

 

当時の取り調べでは、拷問が当たり前に行われていたが、竹内は断固として事件への関与を否定した。

しかし、逮捕から20日目の8月20日になって竹内は一転して犯行を認め、一人で犯行を計画し実行したと主張しだした。

ところがこの後、共同犯行を主張したかと思えば、全面否認に変わったり、さらには単独犯行に主張を一転させたりと、主張を二転三転させた。

 

昭和25年8月11日、第一審判決で竹内の単独犯行と断定し、竹内だけが無期懲役の判決を受けた。他の9人は無罪となった。

竹内は控訴したが、二審の判決はもっと重かった。

翌26年3月30日、東京高裁の二審では一審の無期懲役を破棄し、死刑判決を言い渡した。

 

慌てた竹内は、再び自分は無関係だと主張した。

しかし、時すでに遅く昭和30年6月21日に最高裁で上告が棄却され、竹内の死刑が確定した。

陰謀説、冤罪説

竹内が拷問を受けているときに共産党系の弁護士が竹内に接見し、この事件が非共産党員の単独犯であれば10年くらいの刑で済むと伝えている。

もし、竹内が一人でやったと名乗り出れば、人民政府が樹立したときは皆から英雄として歓迎されるだろうと唆したという。

死刑確定後、竹内が弁護士を非難すると弁護士は逃げるようにして立ち去ったという。

 

自分だけが罪をかぶり、「他の仲間たちは竹内を忘れて普通に生活している、これでは自分は浮かばれないではないか」と思うようになり、やがて竹内は精神を病む。

死刑確定後

死刑が確定した後の竹内は荒れ、刑務官に殴りかかることがあった。

刑務官も腫れ物に触れるように竹内を扱ったという。

 

昭和40年頃から激しい頭痛を訴えるようになり、物忘れがひどくなっていった。

 

昭和41年1月13日、竹内は嘔吐の後、意識を失う。

翌日に東大脳外科の医師が診察し、脳腫瘍と判断したが、ときすでに遅く、家族に見舞われながら息を引き取った。

 

1967年1月18日脳腫瘍のため死亡。

享年45歳だった。

 

こうして三鷹事件の真相は事件に葬られてしまった。