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1955年3月17日の深夜、栃木県芳賀郡で雑貨商を営む一家4人が惨殺されるという痛ましい事件が起こった。

 

現金2千円と腕時計1個を持って犯人は逃走。

当初は金銭目的の強盗だったが、現金が2千円しかなかったため、腹いせに女中と女主人が強姦のうえ絞殺された。

 

盗んだ腕時計を東京の妹に与えたことが決め手となって、事件から2か月後に近くに住む農業手伝いの菊池正(26)が逮捕された。

 

菊池正

逮捕

女主人と女中には強姦された跡があり、精液が残っていた。

捜査本部は複数犯とみて捜査したが、一向に容疑者が浮かんでこなかった。

迷宮入りが囁かれだした2か月後に、現場近くに住む菊地正(23)が逮捕された。

 

菊地は、事件前日に婚約しており、本人も捜査に協力していたため周囲は驚いた。

菊地が逮捕されることになった理由は、被疑者の腕時計を菊地の妹が身に着けていたからだった。

母親思い

菊池正は、母親思いで真面目というのが近隣からの評判だった。

 

事件の5年前、県内の眼科で母親が白内障と診断されると、母親思いの菊池は目の治療費を稼ぐために、朝の暗いうちから夜遅くまで働いた。

しかし、いくら朝から晩まで働いても、一向にお金は貯まらなかった。

そんなとき、近所の商売上手といわれた雑貨店に盗みに入ることを思いつくが、全ては母親の目の治療のためだった。

死刑囚の脱走

菊池正は、1955年5月12日午前7時に東京拘置所の死刑囚房舎から脱獄した。

当初、見回りの刑務官が早朝6時半の点呼時に確認していると証言したため、逮捕は時間の問題と思われたが、事件発覚時には菊池は電車で実家のある栃木に向かっているところだった。

実は菊池が脱獄したのは前日の午後7時過ぎで、当日6時半に確認したというのは、当直の刑務官が責任追及を免れるためについたうその証言だった。

 

 

菊地が一家4人を殺害して逮捕されたことで、母親が近隣住人に村八分にされており、村八分にされていることを兄の手紙で知った母親思いの菊池は、母親に一言詫びたいとの思いから脱獄を決意する。

脱走を決意した菊池は、購入したパンに水を含ませ欠片にして再度、干すことで保存食を作っていた。

休憩時間には脱獄に備えて腕力も鍛えていた。

 

異父兄にも手伝ってもらい金ノコを手に入れた。

兄は雑誌の差し入れと称して菊池に渡すと、雑誌にはいくつかの文字に点がつけられており、文字をつなげると「背表紙の裏」という一文になった。

兄は別の雑誌の背表紙に金ノコを隠し、偽名を使って別の囚人に差し入れをする。

そして、その囚人が読み終わった雑誌を菊池が借りて背表紙から金ノコを回収するという用意周到なものだった。

 

金ノコを手に入れた菊池は、鉄格子を少しずつ切っていった。

時間はかかったが鉄格子を切ることに成功し、脱獄は実行される。

脱獄犯は母親の待つ家に向かった

脱獄した菊池は、駅を使わず走ってる列車を乗り継ぎながら栃木の実家へと向かった。

栃木では、実家の様子や周辺の状況を兄と待ち合わせて教えてもらった。

しかし、実家の近くには警察が抑えていて母親に近づくことができなかった。

 

保存食もなくなり、脱走から10日ほどした頃、業を煮やした菊池は正面から実家に向かった。

実家近くに待機していた警察の前に堂々と現れ、体力も落ちていた菊地はそのまま捕まった。

逮捕された菊池は、「一目だけでも母親に会わせてくれ」と叫んだ。

 

菊地の声を聞いた母親と妹が家を飛び出してきたため、親子は再会することができた。

これが親子の最後の対面になった。

判決

1953年11月、宇都宮地裁で死刑判決が言い渡される。

 

1954年9月、東京高裁で控訴が棄却される。

 

1955年5月、脱走事件を起こす。

脱走事件により拘置所の所長のクビが飛んだという。

脱走後、東京拘置所に戻された菊池に対して最高裁は上告を棄却し、死刑が確定した。

 

1955年11月21日、宮城刑務所で菊地の死刑が執行された。

享年28歳。

菊池の最後の言葉は、「おかやん、おかやん助けてくれよ、おかやん。」だったという。