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「栃木実父殺し事件」は、刑法200条に規定されていた尊属殺人が、憲法違反と判断されて削除されるきっかけになった事件。

 

1973年4月4日、最高裁判所は、実の父親(53)を殺害した相澤チヨ(34)に対して懲役2年6か月、執行猶予3年を言い渡した。

世間から注目された事件の結果は、実の父親を殺害するという尊属殺人だったにもかかわらず、執行猶予付きの判決という軽い(実際は軽くない)ものだった。

 

自分よりも以前の世代の血族を尊属といい、父母、祖父母、曾祖父母といった直系の血のつながりのある尊属を直系尊属という。

 

 

当時、普通殺人の刑罰は「死刑又は無期若しくは3年以上の懲役」だったのに対して、尊属殺人の刑罰は「死刑又は無期懲役」に限定されていた。

 

この事件をきっかけに、尊属殺人に重罰規定が設けられていることが、憲法14条の法の下の平等に反するかどうかが最高裁で争われた。

最高裁で争われた結果、刑法200条「尊属殺人」はやがて削除され、規定が適用されることはなくなった。

事件概要

1968年10月5日、栃木県矢板市の市営住宅で、相澤チヨ(29)が寝ていた実の父親(53)の首を絞めて殺害した。

チヨは父親を殺害したことを知り合いに話し、駆けつけた警察官に逮捕された。

 

チヨは、当時29歳で5人の子供を生んだ母親だったが、子供の父親が問題だった。

なぜなら5人の子供は、実の父親との間にできた子供だったからだ。

 

チヨの不幸は、異常な父親の下で生まれてきてしまったことだった。

父親に人生を奪われる

チヨは14歳のある日、実の父親から性交を強要された。

これ以後、チヨはたびたび父親から性交を強要されるようになり、悩んだチヨは母親から父親に注意してもらうよう打ち明けた。

父親は、母親から注意されたことに逆上し、母親に対して刃物で振り回しては「ぶっ殺すぞ。」と脅した。

 

このことがあって以後、父親は家族に暴力を振るうようになる。そして、チヨへの性交強要も相変わらずだった。

 

チヨには、姉、二人の妹、三人の弟の兄弟がいたが、母親は父親の暴力に耐えきれず、チヨと妹一人を残して家を出ていってしまった。

チヨは父親の監視下にあったため、連れ出すことができなかった。

 

こうして父親とチヨと妹の三人の生活が始まったが、母親がいなくなったことでチヨへの性交強要はエスカレートしていく。

 

やがてチヨは父親の子を身ごもってしまう。

一度だけ知り合いの男性に頼んで、父親からの逃亡を試みたが、結局は連れ戻されてしまった。

こうしてチヨは、父親から離れることをあきらめ、以後10年以上にわたって夫婦同様の生活を強いられる。

事件当時は、実の父親との間に5人の子を産んでいた(うち2人の子は死亡)。

父親殺害

その後、チヨは29歳になると印刷所に働きに出ることになる。

やがてチヨは、印刷所で出会った年下の男性と付き合うことになり、結婚する機会にめぐまれる。

 

チヨが結婚を願って父親に打ち明けると、父親はこれを許さなかったばかりか、酒によって暴力をふるい「出ていくなら子供を殺す」と脅した。

結局、男性との結婚は実現できなかった。

これ以後、チヨは外出することが許されず、10日以上にわたって脅迫と虐待を受けた。

 

このことがきっかけで将来を悲観したチヨは、この境遇から逃れるために、泥酔していた父親の首をひもで絞めて殺害した。

 

チヨは、父親殺害後、近所の知り合いを訪ねて父親殺害を話した。

裁判と違憲判決

裁判では、「尊属殺人に死刑か無期懲役しかない」ことと「尊属殺人の規定が憲法違反になるか」がが問題となった。

 

第一審の宇都宮地裁では、刑法第200条(尊属殺人罪)を憲法違反として普通殺人罪(第199条)を適用しようとした。

 

第二審の東京高裁では、第200条を合憲としたうえで、最大の減刑を加え懲役3年6か月の有罪判決を下した。

 

最高裁では、第200条を憲法違反として第199条を適用し、懲役2年6か月、執行猶予3年の判決を下した。