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保険金実母等殺人事件は、1971年に愛媛県で起きた殺人事件。

愛媛で金融業と不動産仲介業を営む立川修二郎は、姉と共謀して母親を交通事故を装って保険金目当てで殺害し、保険金を受け取った。

その後、母親殺害時に居合わせた妻からの発覚を恐れた立川は、妻を殺害して立川の兄が営む鍛冶場に埋めた。

事件発覚前夜

1953年、愛媛県の民家で煙を伴う異臭騒ぎが起きた。

それが、20年後に起こる日本を揺るがす連続殺人事件の負の連鎖の狼煙とはそのときは誰も思うものはいなかった・・・・・・。

 

1973年1月、事件は一人の女性が警察署を訪ねたことから始まった。

姉と半年前から連絡がとれないことから、姉の嫁ぎ先に連絡をしてみると、嫁ぎ先からは「男を作って逃げた」と言われた。

男を作って逃げるような姉ではないと不審に思った女性は、警察に行き姉を探してほしいと相談する。

相談の際、姉の名前は「佳子(仮名)」と警察に伝えた。

 

その名前を聞いた一人の警察官は、8か月前の事件を思い出した。

失踪した佳子は、8か月前に「夫に殺される」と言いながら警察に駆け込んできていた女性だった。

しばらくして夫の立川修二郎が現れ、ただの夫婦喧嘩だと警察に話した。

夫の修二郎は、愛媛で金融業と不動産仲介業を営み、厳しい取り立てで知られており、評判は良くなかった。

結局、その日は夫婦喧嘩ということで処理され、夫婦一緒に帰った。

管理官の赴任と事件の捜査開始

その後、失踪した佳子を捜索していた担当刑事は、夫のところに事情を聴きに行ってみることにした。

刑事が佳子について尋ねると、夫の返事は「佳子は男を作って出ていった」から知らないだった。

 

そのまま3か月が経過した頃、新しい管理官が赴任してきて、この事件についてもっと入念に調べるように事件の担当刑事へ伝えた。

新しい管理官は敏腕刑事として知られた人物であった。

 

担当刑事が立川修二郎を調べてみると、2年前に修二郎の母親が自宅前の国道で交通事故に遭って死亡していたことを知る。

事件当時の通報者は修二郎の姉の里子だった。

母親の交通事故

自宅前で起きたことだったため、姉の里子だけでなく、修二郎、修二郎の兄の伝一郎、修二郎の妻の佳子も現場近くにおり、警察が駆けつけたときには一家全員が現場にいた。

 

事件を通報した里子は、駆けつけた警察に事件の概要を伝え、ひき逃げ犯人が運転するトラックのナンバーも警察に伝えた。

すぐに事件現場から数キロ離れた場所でひき逃げ犯人が捕まった。

ところが、運転手の身柄を確保してみると、運転手はひき逃げについて認めず、トラックからも事故の痕跡が認められなかった。

結局、事件は不起訴処分とされた。

 

これらの話を聞いた管理官は、立川修二郎に何かあると考え、担当刑事に修二郎を中心にもう一度事件をチェックするように言う。

明らかになっていく修二郎の不審な点

担当刑事が修二郎をさらに突っ込んで調べてみると、事件の少し前に修二郎は不動産取引で1,600万円の横領事件で訴えられ、判決前に全額を返還して逮捕を免れていたということが分かった。

また、母親の死亡によって4,000万円の保険金を受け取っていたことも分かった。

 

刑事が、母親の死亡について事故の写真を医者に見せると、事故に不審な点があることが判明した。

また、修二郎の過去を探ってみると、大学時代に交際相手の父親を襲って逮捕されていたことも分かった。

しかし、修二郎と母親、姉の里子の仲は非常によく、修二郎は母親に甘やかされて育ち、逮捕された後も仲良く過ごすほどだった。

 

捜査が行き詰まりを見せた頃、修二郎の妻の佳子の失踪について、佳子の妹のアパートに聞き込みに行った刑事は、妹から衝撃的な話を聞く。

妹は、母親の事故についての真相を姉から聞いていたのだった。

母親のひき逃げ事件の真相

佳子の妹は、修二郎の母親がひき逃げにあった事件の真相を躊躇いながら語りだした。

 

事故当日の午後10時頃、立川家の居間には修二郎、里子、母親、佳子がいた。

 

午後10時過ぎに佳子が入浴をしていると、女性の悲鳴が聞こえた。

慌てて佳子が見に行くと、玄関で母親が頭から血を流して倒れていた。

その場には修二郎と里子もおり、修二郎の手には血の付いたコンクリートの塊の様な物があった。

修二郎は、妻に「これがバレたら死刑になる。見なかったことにしてくれ。」と言った。

 

その後、家族全員で母親の死をひき逃げ事故死に見せかけることを画策する。

母親のひき逃げ事件は、立川家全員による見せかけ事故で、真相は修二郎の母親に対する殺人事件だったのだ。

 

佳子の妹の証言によって事件の全貌が明らかになったが、決定的な証拠を見つけることは困難だった。

警察は一度、任意で修二郎と里子を取り調べてみたが、二人の供述は口裏を合わせたかのように一致していた。

 

再度、警察は証拠品を洗い直して検証した。

検証した結果、トラックの運行状況を知ることができる物が見つかる。

 

事故を通報した里子を呼び出し、「トラックの運行情報について分析してみた結果、ひき逃げ犯は時速40キロで走行していたことが分かった。」と告げる。

事故が起きてからトラックのナンバーを確認するには最低でも10秒かかるため、時速40キロで走行するトラックのナンバーを事故現場から50m以上先にある家から出てきて確認するには無理があると伝えた。

「証言をもとに検証した結果、トラックのナンバーを確認する時には、トラックは110m先を走っていることになる。」

このことを伝えると、里子は観念し事故が偽りであることを認めた。

 

観念した里子は、事件の経緯を話し出した。

当初の予定では、母親を殺すつもりはなく、修二郎が横領した金額を母親が紛失したことにして事故にしようとした。

しかし、母親は警察の厳しい捜査に耐えられず本当のことを言ってしまった。

 

これに激怒した修二郎は、このまま何もしなければ逮捕されると思い、母親の殺害を決意する。

母親殺害の6か月前、修二郎は姉の里子と兄の伝一郎を呼び出し母親殺害の協力を要請していた。

当初は反対した二人だったが、修二郎が捕まれば犯罪者家族になると脅され、しぶしぶ容認することにした。

佳子さんの行方

兄の伝一郎の仕事は鍛冶であり、鍛冶場は立川家の離れの同じ敷地内にあった。

事件の捜査中、鍛冶場に段ボール箱が運び込まれたのを目撃したとの情報が近隣住民からもたらされたため、兄の鍛冶場を掘り起こしてみると、白骨化した一体の死体が発見された。

警察が調べた結果、白骨化した死体は妻の佳子さんのものだった。

 

母親殺害後、修二郎の女癖の悪さから夫婦喧嘩をしたときに佳子は「あのことをバラしてやる」と口にしてしまう。

それを聞いた修二郎は、妻である佳子の殺害を決意したのであった。

 

姉と兄を呼び出し妻の殺害に協力するように要請する。

この時も二人は反対したが、修二郎に押し切られしぶしぶ協力させられることになる。

修二郎は佳子の殺害を実行に移そうとしたが、間一髪のところで佳子に逃げられ、警察に駆け込まてしまった。

佳子が警察に駆け込んだこの時が、失踪の8カ月前のことだった。

何とか夫婦喧嘩ということで処理された修二郎は、再び佳子さんの殺害を画策する。

次は、修二郎と兄伝一郎の二人掛かりで佳子を殺すことにして殺害した。

佳子をダンボールに詰めて鍛冶場に運んで埋めた。

明るみになった20年前の事件

次に刑事が捜査したのは、何故、兄と姉が弟修二郎にここまで振り回され、付き合わされるのかという点だった。

警察が佳子さんの遺体を見つけた際、近隣住民から「他の遺体は見つからなかったのですか?」という質問を受けていた。

「他にも遺体が埋まっている?」

警察がなぜそんなことを聞くのか聞くと、実は20年前にも不審な事件があったと近隣住民から告げられる。

 

 

警察がこのことについて兄の伝一郎に聞き込みをすると、観念した伝一郎は、20年前のことを話し始めた。

 

約20年前の冬、修一郎から父親宛に運送会社から荷物が運ばれてきた。

運ばれてきた荷物を追うようにして修二郎が帰宅すると、父、兄、修二郎の三人で鍛冶場に穴を掘って荷物を埋めたという。

荷物の中身は、修二郎が他人に頼まれて殺害した男だった。

 

遺体を埋めてから1年2か月後、一度埋めた遺体を掘り起こし、焼却することを計画する。

ところが、遺体を焼いてみると、匂いがきつく近隣住人が異臭がすると騒ぎだした。

やむなく遺体の焼却を中止したとのことだった。

 

話を聞いた捜査本部は、遺体の身元を確認しようとしたが、遺体が発見されなかったこともあり、特定には至らなかった。

死刑判決

裁判では、兄伝一郎と姉里子には懲役15年の判決が下った。

修一郎には、死刑の判決が下された。

 

事件発覚から20年後の1993年3月26日、立川修一郎の死刑が執行された。

家族全員がクリスチャンだったという。