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悪魔の詩訳者殺人事件は、1991年7月12日に筑波大学の校内で起きた殺人事件。

 

警察は有力な手掛かりがつかめないまま、2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

日本始まって以来のテロ事件といわれており、イスラム圏の国を敵に回しかねないことから、警察によって事件が封殺されたとも言われている。

悪魔の詩訳者殺人事件

1991年7月12日午前8時過ぎ、筑波大学の校内A棟7階のエレベーターホールで、清掃員の女性が全身血だらけとなっていた男性を発見する。

救急隊が駆けつけたときにはすでに心臓は停止しており、搬送先の病院で死亡が確認された。

 

亡くなった被害者の男性は、筑波大学で助教授を務めていた五十嵐一さん44歳であった。

男性の遺体には、無数の鋭い刃物による創傷があり、頸部の動脈と静脈が切断され失血死していた。

首はズタズタに切り裂かれており、全身が血だらけだった。

悪魔の詩

事件の一週間前、イタリアのミラノで「悪魔の詩」を翻訳した人物が全身をナイフで刺され、重傷を負うという事件が起きた。

 

「悪魔の詩」とは、1990年にインド出身のサルマン・ラシュディが著いた小説のことだ。

悪魔の詩の内容についてイランの最高指導者が「反イスラム的である」として批判しており、著者と出版に関わった物を処刑することを宣告していた。

この悪魔の詩の翻訳をした日本人が殺された五十嵐さんだった。

イランの反政府組織の犯行声明

事件の3日後には、イラクのバグダッドに拠点を置くイランの反政府組織が、犯行声明を送っていた。

犯行声明によると、イラン国内でいくつかの暗殺団が組織され、「悪魔の詩」に関わった人物を処刑するとのことだった。

 

人目につくエレベーターホールであまりに凄惨な殺害方法が取られたのは、見せしめのためではないかといわれた。

日本政府により捜査が打ち切られる

事件直後、茨城県警は、警察庁を通じて東京入国管理局に照会を行っており、報告書の中にはバングラディシュ人をマークしていたことが記されていた。

バングラデシュ人は、事件後、直ちに出国していることから、事件に関与している疑いがあるとされていた。

しかし、当時の日本政府はテロとの戦いを覚悟できなかったため、捜査は打ち切られたといわれている。

 

日本は、イスラムの国々から石油を輸入しており、下手に犯人を逮捕してイスラムの国々を刺激するメリットは少ないと判断された。

 

その後、警察の捜査は進展しないまま、2006年7月11日に15年の時効を迎えてしまった。

 

「実は、その瞬間、警察庁幹部たちの脳裏には、一人の男の名前が浮かんでいた。それは、密かに、犯人の可能性が高い、と結論を下していた外国人の男の名前だった。

 

捜査関係者の話では、事件後、直ちに出国していることから、同人が事件に関与している疑いがますます濃くなったとしている。

つまり、警察庁と法務省はこの男を容疑者として、事件直後から断定していたのである(私は真犯人を知っている 未解決事件30)。」

 

その外国人の男は、殺害された五十嵐助教授と同じ大学の留学生だったという。

 

 

 

参考文献

 

「文藝春秋10月号」